『俺がJBだ!―ジェームズ・ブラウン自叙伝』

俺がJBだ!―ジェームズ・ブラウン自叙伝 (文春文庫)
「ミスター・ダイナマイト」「プリーズ・プリーズ・プリーズマン」「ショービズ界一番の働き者」「ソウルブラザー・ナンバーワン」「セックスマシーン」「ヒズ・バッド・セルフ」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウルの帝王」「ゲロッパの人」…などなど、多くの異名とともに語り継がれているJBことジェームズ・ブラウン。2006年12月に亡くなってからすでに3年以上の歳月が経っているわけだが、いまだに自分の中でこの人の音楽を整理しきれていないところがあったので、自伝を買って読んでみた。


浮き沈みの激しい生涯を送ったJB氏だが、私が彼を初めて認識したのもちょうどその何度目かのリバイバルのタイミングだった。脱税問題に絡む訴訟で疲弊した上、ソウルを換骨奪胎したディスコ音楽の隆盛に嫌気が差し、ショービズ界からも半ば隠遁状態にあったJBを、コメディアンのジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが説き伏せて、自ら企画した1980年の映画「ブルース・ブラザーズ」に説教師の役で出演させ、これが大当たりとなりJBはカムバックを果たす。
これをきっかけにJBのもとに何本かの映画出演の依頼が舞い込むわけだが、その中の一つが1985年の「ロッキー4」で、JB自らが出演して歌い上げた「Living in America」こそが、私とJBの出会いなのである。
当時小学生(10歳)でソウルやR&Bはおろか洋楽すらほとんど聴いたことがなかった私は、「ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」なんかでは決してお目にかかれない自由奔放なヴォーカル&パフォーマンスに、大きな衝撃を受けたものだった。最初はふざけて笑わせようとしているのかと思ったほど。

「ロッキー4」では、シリーズを通じてロッキーのライバルだったアポロが、引退の花道としてソ連の怪物ボクサー・ドラコと対戦することになり、その入場シーンでこの曲がJBのパフォーマンスとともに使われる。この場面、言ってみればアポロの道化性(この後試合中にドラコの強烈なパンチを受けリングで死亡する)が強調されている印象が強かったのだが、JB自伝を読み、「Living in America」の歌詞の内容を理解し、さらにアポロという黒人ボクサーの生き様を考えながら見返してみると、アメリカに住む黒人たちが背負った、「前に進むしか道はない」という悲哀がにじみ出た、深い場面にも思えてくる。


JBのパフォーマンスを見ていて、何でバックバンドやダンサーがあんなに大勢いるのか疑問に思っていたのだが、自伝を読んでその謎がようやく解けた。

 皮膚の黒い人種が教会の礼拝に参加するのは、幾多の試練や苦難、それに俺たちが人間の本質について理解しているもろもろの事柄のためだ。口ではうまく説明できないが、俺は人々からそれを引き出すことができる。こういった能力を持つのは俺だけじゃないが、俺はこれを自分のものにしているし、俺のステージの多くがその教会からうまれたことは間違いない。

 ミンストレル・ショーを見る時には金を払わされたが、それは単に俺たちがもぐり込む方法を見つけられなかったからだ。ニュー・オリンズから来るサイラス・グリーンが最高だった。彼は、シンガー、ダンサー、ミュージシャン、それにコメディアンをそろえ、バラエティーに富んだ完璧なプログラムを組んでいた。そいつがまさに俺が十五年後に「ジェームズ・ブラウン・レビュー」でやろうとしたことだった。

悲惨な幼少時代にゴスペルやブルースを通して「音楽に救われた」JBは、ポップチューンを歌うバンドを結成してキャリアをスタートしたのだが、当時のライブハウスは観客が一度チケットを買うと一日中でもステージを見ていられる入替なしのシステムが主流だったため、音楽性だけでなく観客を飽きさせないショーとしてのアピールが求められた。そのためJBは「マッシュ・ポテト」という独特のダンスや「マントショー」と呼ばれる演出、バンドの演奏、ステージの合間に行う寸劇形式のパフォーマンスに至るまで工夫を凝らし、結果として一座の人数がどんどん膨らんでいったわけだ。
自伝の中でJBが「俺は全ての観客を殺してやったね」といった具合に「殺す」という表現を何度か使うのだが、バンド、演奏、衣装、照明、ヴォーカル、歌詞、その他全てにおいて過剰ともいえるあの演出は、膨大な量のライブ公演の積み重ねの中で研鑽していった結果ということか。
飛躍かもしれないが、これは日本の歌舞伎に通じるものがあるように感じた。過剰な演出とか、長時間かけてエンターテインするところとか、ライブで磨かれてた「型」だとか、それらが渾然となって生まれる観客と演者との一体感とか。


それにしてもこの自伝を読んで感じたのは、表現の世界においてオリジネーターであることの重要性と厳しさだった*1
ポップスが隆盛だった頃に、JB自ら作詞作曲をし、ライブで何年も練り上げた「Please, Please, Please」のデモテープをレコード会社に持ち込んだところ、「馬鹿げた歌だ。同じ言葉の繰り返しじゃないか。」とにべもなく出版を断られたらしい。ようやくレコーディングにこぎつけた後も、演奏や展開についてレコード会社の社長と意見が対立し、JBの主張を擁護してくれたスタッフはその後クビになってしまった。だが紆余曲折の末1956年にリリースされたこの曲は、最終的にはミリオンセラーとなった。

この強烈なパフォーマンスは多くの追随者を生み、ポップスの範疇を超え「リズム&ブルース(R&B)」、さらに「ソウル」や「ファンク」と呼ばれる音楽へと発展していく。

 ツアー中に何が起ころうと、俺は絶えずショーに磨きをかけることを考え、新しいアイデアやサウンドを取り入れていた。だがその頃、俺の頭の中には、これまでどこでも聴いたことのないサウンドは鳴り響いていた。そのサウンドには名前がなかったが、俺にはこれが今までのサウンドと違っていることがわかっていた。そう、ミュージシャンはカテゴリーなんてものを考えやしないんだ。明日ビバップを発明するつもりだとか、昨日はロックンロールを思いついた、なんて言う奴はいない。何か違ったサウンドが聞こえ、それに導かれるままについていくだけだ。名前なんかつけたい奴につけさせればいい。人々が俺たちのやっていた音楽をリズム&ブルースと呼んだようにな。俺たちがやっていたことに世間が追いつくまでずいぶん時間がかかった。だが、ようやく追いついた時に、こいつも名前を頂戴した。“ソウル”という名を。

一方で、こんなやっかみも当然増えてくる。

…ある男がホテルのロビーで俺のところにやってきて「そうか、あんたがジェームズ・ブラウンか。わめいたり叫んだりするだけで一〇〇万ドル稼ぐとはね」と言った。
「そうだ」と俺はとても静かに答えた。「だけど、俺はキーに合わせてわめいて叫ぶんだ」

また逆に、「黒人が生み出した音楽を白人が商業的に搾取した」というよくある言説も、こんな風にいさめている。

 白人が黒人の音楽を学んでいるのに文句をつける輩がいつもいる。俺たち黒人が、ある分野の音楽を独占しきたのは事実だが、誰にだってこれを学ぶ資格はあるんだ。盗むべきじゃないが、これを学び、演奏する資格は誰にでもある。片方に偏ってみたってしょうがない。人に教えるってのは、誰に教えるのも同じことだからな。ただし、誰かから学んだ時には、教えてくれた人が最高の友だということを忘れないことだ。だが、教えてくれる人がちゃんと教えてくれなかったら、面倒なことになる。


最後に、オリジネーターであることの難しさを説いた珍説を。

 独創的な人はほんの一握りしかいない。ペリー・コモは独創的だ。ビング・クロスビーにも独創性はあったが、ルイ・アームストロングの影響が大だった。ジェームズ・ディーンはあらゆる点でオリジナルだった。ファビアンはコピーだ。彼は単に顔が良かっただけ。ファビアンは髪が薄くなりはじめたから消えたんだ。トニー・カーティスが消えたのも同じ理由だ。髪が第一。次が歯だ。髪と歯。人にこの二つがあれば、すべてを持っているのも同然だ。

*1:同じく、生涯を通じて常に最前線に立ち続けたミュージシャン、マイルス・デイビスの自伝を読んだ時も感じたことだった。2007年3月24日の日記や、2007年5月29日の日記あたりを参照のこと。