『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』

マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか? (P‐Vine BOOKS)
6月にマイケル・ジャクソンが急逝した際、人々の反応は大別して次の4パターンだったのではないだろうか。

  • マイケルの不在をひたすら悲しんだ人
  • マイケルへの毀誉褒貶を了解した上で彼の功績についてはリスペクトした人
  • マイケルをリスペクトしつつも奇行や悪評のため距離を置いて悼んだ人
  • マイケルを単なる小児性愛者・変人と切り捨てた人

おそらく2番目、3番目あたりのポジションの人が多かったのではないかと思う(私も2番目あたりだった)が、とくにアメリカでは4番目の意見もいまだに根強いらしい。本書はそんな偏見(あえて偏見と書かせてもらおう)のおおもととなっている、マイケルが性的いたずらをしたとしてギャビン・アルビーゾ少年とその家族により訴えられた裁判の公判記録を追ったノンフィクションである。


この裁判を当時のマスメディアは相当センセーショナルに描き、またマイケル自身も(実は理由があってのことなのだが)奇矯な服装で裁判所に現れたりして、結果的にマスコミに格好の話題を提供してしまった。
ところが実際にこの裁判で暴かれたのは、原告側のアルビーゾ一家こそが限りなく黒に近いグレーである…ということだった。
実はアルビーゾ一家は、この裁判の数年前にある会社に損害賠償の訴えを起こして虚偽(=平たく言うと詐欺行為)であるという判決を出されており、また本件に関する証言も非常に不確かなものであることが、弁護側によって証明されていったのだ。
そして、ここが大事なのだが、こうした事実をきちんと報道したマスメディアは非常に少なかった。
その結果、原告側(つまり少年側)の訴えが全面的に棄却されたにも関わらず、世間一般には「金にモノを言わせて勝ったんでしょ」とか「完全に証明できなかっただけで真実は藪の中なのだろう」くらいの印象がいまだに流布していると思う。実際私もこの本を読むまではそんな風に思っていた。


裁判記録を丹念に追った本書でつまびらかに明かされるのは、幼い頃からほとんどずっとスーパースターの地位に君臨し続けたマイケル・ジャクソンの、特異な心性である。
何故マイケルは「ネバーランド」などという奇妙な邸宅を構え、そこに少年たちを呼び続けたのか? 筆者はマイケルを追いかける取材陣たちが、皮肉にも自らそれを悟る瞬間をこんな風に描写している。

 あらゆる大人のエゴに抗しがたい魅力で対処するマイケルをメディアが見守る中、なぜマイケルが大人の束縛のない世界を作る必要に駆られたのか、その理由がはっきりとしてきた。常に監視され、大人たちの期待を背負ってきたマイケルが、苦心して自宅に自己完結した世界を築き上げたのも納得できる話である。スターになった当初から、ガラス張りの生活を強いられてきたマイケル。彼にとってネバーランドは、テレビカメラやカメラのフラッシュ、ゴシップ・コラム、見物人といった大人の世界全体から逃れる場所だったのだ。

その「決して大人に邪魔されない場所」として、マイケルは子供たちの楽園を作り上げた。そこでは基本的に何をしても許され、好きなときに好きな場所で食事ができ、夜更かししてゲームや映画に興じても誰にも怒られることはなかった。
普段どんなに貧しい暮らしをしていても、どんなハンデキャップを負っている子供も、この場所でだけは何の制約も受けずに本心から楽しめる…マイケルはそんな理想の場所としてネバーランドを開放していたのだ。
ところがその結果どうなったかというと、子供たちは最初こそ借りてきた猫のように大人しくしているものの、次第に羽目を外すようになってくる。まあある程度は子供だから仕方ないのだが、中には勝手にマイケルのワインセラーに忍び込んで飲酒をしたり、器物を損壊するケースも出てくる。
それはもちろんマイケルとしては不本意なことだったが、それでもネバーランドでは大人が子供を叱ることは決して許されていなかったそうだ。


ここでマイケルに唯一落ち度があったとすれば、相手が大人にせよ子供にせよ、信じられないくらい簡単に「つけいる隙」を与えてしまったことだろう。とにかく疑うということを知らないので、至極あっけなく食い物にされてしまうのだ。
…だからといって誰がそれを非難することができるだろうか?

 悲しみ、喜び、祈りが入り乱れたマイケル・ジャクソン裁判。裁判所に集まった人々は、無罪となったマイケルに別れを告げた。裁判終結後、あるジャーナリストは、証拠のひとつとなったメモをじっと見つめていた。ある書籍の内側に記されていたマイケルのメモである。公判中は特に注目を浴びることのなかったこのメモは、マイケル・ジャクソンの本質をとらえていた。スーパースターは本の中に、こんな言葉を残していた。

少年たちの
顔に浮かぶ
幸せと喜びを見よ。
これこそが、少年時代の真髄だ。
私が過ごしたことのない時代、
私が一生憧れ続ける時代である

マイケル・ジャクソンとは、ある子供たちにとっては「無限の庇護者」であり、ある大人にとっては「無限の冨を生み出す巨大ビジネスマシーン」だった。
生涯を通じて「人に愛されたい」と願い続けたたマイケル自身の不幸な結末から、我々はいったい何を学ぶべきなのだろうか。