『源氏と日本国王』

源氏と日本国王 (講談社現代新書)
学校の日本史では、源頼朝征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開いて以来、長らく日本は天皇ではなく武家政権が統治していたと習った。
ここで誰もが持つ素朴な疑問として、「なぜ源氏や足利氏や徳川氏(やその他の権力者)は、天皇を廃して自らが日本の国王にならなかったのだろう?」というのがあると思う。
何せ征夷大将軍という地位は、そのままの意味では単なる軍の最高司令官に過ぎず、たとえば鎌倉時代から江戸時代にかけては長い間戒厳令下の軍事政権だったと考えたとしても、諸外国から見て国を代表する地位というのはあくまで天皇だったはずだ。
本書ではズバリ、「征夷大将軍という地位は日本の国家主権を示すものではなかった」として以下のように説明する。

…(前略)「貴種性」と「神秘性」を持つ天皇が、武力によって政権を掌握した武家政権に対し、国家主権の「正当性」を付与するといった筋書きは、かつての「大政委任論」と大同小異ではないか。もっと根本的なところで、「将軍権力」なるものを見直すことはできないか。(略)
 そんなことを考えていたある日、私は、足利義満にせよ徳川家康にせよ、「征夷大将軍」として国家主権を掌握していたと言われている人々の多くが、「源氏長者」という「貴種性」を示す地位にも就いているという事実に気が付いた。(略)
 とすると、ひょっとして武家政権が、「征夷大将軍」として「国家主権」を掌握していたという理解そのものが間違っているのではないか。足利家や徳川家は「征夷大将軍」としてではなく、「源氏長者」として「国家主権」を掌握していたのかもしれない。(略)

つまり本書で読み解こうとしているのは、対内的な主権者ではなく対外的な主権者としての地位を、征夷大将軍がどのようにして身に着けていったのか…という話。それを、当時の中華帝国である明から「日本国王」として封じられた足利義満や、これとは対照的に鎖国体制の中で自ら「日本国源家康」を名乗った徳川家康以下歴代徳川将軍らについて見ていくことで、中世から近世における日本の国家主権のあり方を全く新しい視点で提示しようと試みている。


簡単にまとめてしまうと、以下のようになるだろうか。

元来親王臣籍降下するために新たに作られた氏(うじ)である「源氏」には、その起源ゆえに、場合によっては天皇家に復活する可能性も与えられていた(とみなされていた)。人臣でありながら天皇に近い存在であった源氏には、氏を束ねる存在として「長者」と呼ばれる人がいて、そのときに最も高い位にある者がこれに就いていた。
同じ征夷大将軍でありながら、源頼朝以来の鎌倉将軍はこの源氏長者の地位には就いておらず、これに対して武家として初めて源氏長者になった足利義満や「源氏の末裔」を名乗って長者になった徳川家康らは、この地位をもって日本国を代表する「日本国王」の地位をも手に入れていた。

本書では、源氏長者が「日本国王」を名乗るのに相応しい地位として利用されていった過程を追っているが、まあもっと単純に、武家(御家人)はもとより将軍が統治しているから、もう一方の公家を統治するために必要な地権威付けとして源氏長者の地位が利用された…だけのようにも思う。
まあいずれにせよ、征夷大将軍と源氏長者の両者に就くことで、公武にまたがる強力な権力を持とうとしていたのは間違いないのだろう。


あと興味深かったのが、なぜ織田信長豊臣秀吉征夷大将軍にならなかったのか、という疑問に対する筆者の説明。
巷間よく言われている説として「源氏でなければ征夷大将軍にはなれない」というのがあって、信長や秀吉は(事実はどうであれ)平氏を名乗っていたので将軍になれなかった…という話がある。が、これはそもそも源氏が存在していなかった時代の坂上田村麻呂や、執権時代の藤原摂家将軍を見れば誤りであることは明らか。別に源氏でなくても征夷大将軍にはなれるのだ。
筆者は、信長や秀吉にとっての「天下」とは、日本国内だけではなく朝鮮や中国、果てはインドまで見据えた「東アジア帝国」のことだったとし、その一部に過ぎない「日本国王」の地位などには最初から興味が無かったので、征夷大将軍にはなれなかったのではなく、なろうとしなかったのだとする。なかなか面白い説明だと思った。