『誰も文字など書いてはいない』

誰も文字など書いてはいない
最近私のなかで書道熱が高まってきている。
それでそもそも「書とはどんなものなのか」「どんな意味があるのか」を勉強したくなって、図書館でそういう本を探していて本書に出会った。書家でもあり京都精華大学の教授でもある石川九楊氏が、その辺のことを非常に分かりやすく説明してくれている。漢字(仮名)を筆で書くということに対して、蒙が啓かれた感じ。


この本で知ったことのメモ。

  • 書を鑑賞するときのポイントは、書きぶりを指でたどること。何故なら書というのは、手で持った筆を使って紙に墨痕を残すという、人間の身体性の芸術だから。
  • 書の変遷は、「甲骨文字→金文→篆書→隷書→草書→行書→楷書」の順。「楷書→行書→草書」ではない。
  • 書は「文字を書いている」のではなく「“筆蝕”を書いている」。骨や青銅器、石などに彫り込んでいた漢字が、隷書から草書になったあたり(それが王羲之の時代)から竹や木、絹、紙などにかかれるようになった。この段階で、彫り込む文字には必要ない「はらい」や「はね」などの身体性が文字に表されるようになってきた。タイポグラフィとして記しているのではなく、腕による筆の運びや紙と筆との接触そのものも含めて表現されるようになってきた。
  • 楷書の成立は初唐のころ。この頃より紙に筆で書くことが普通に主流になった。そのため初唐の楷書は、「石と鑿の刻法」と「紙と筆の書法」が統一されたものであり、紙に書かれた書きぶりで石に刻まれ、石に刻まれた彫られぶりで紙に書かれている。

 つまり楷書というのは、書法と刻法の両方を吸収することによって生まれた書き方(掻き方)による書体なのであって、書としては一種の鬼子です。だから現在でも、筆で楷書を書くときは、起筆がむずかしい、収筆がむずかしい、ハライとくに右ハライがむずかしい、ハネがむずかしい、転折がむずかしい……。むずかしいはずですよね、これらはまったく毛筆に適さない不合理な書き方、きわめて人工的な書法であるからです。(中略)鑿で切り込んで、切り出して、切り収める姿を、筆で再現しようとするから、むずかしいのです。

  • 文字が永遠に残る石から一過性の紙に書かれるようになったことで、堅苦しい政治の話ばかりでなく、人間の自由な意思が書き記されるようになってきた。唐代に花開いた漢詩がその一つの証。
  • 筆運びは、最初は「トンと入ってスーッと引く」あるいは「スーッと入ってグッと収める」といった二拍のリズム(二折法)だったが、唐代に漢字を石に刻むときのリズム感の影響を受けて「トンと入ってスーッと引いてトンと収める」三拍のリズム(三折法)に変わった。現在も一般に楷書を書くときはこのリズム。これが宋代に一画の中で何拍もリズムを取る多折法が編み出され、わざと歪ませたような書体が生まれる。さらに清代になると金農により絶えず筆を動かせ続けるようなリズムも生まれた。

 王羲之のような二折法で長い筆画を書くとすると、おのずから限界があります。(中略)初唐代楷書の三折法では、二折法よりは長く書くことができますが、やはり制約が生じます。しかし、宋代の多折法ともなれば、三折法の三倍くらいは長くすることができ、また逆に三分の一くらいは短くすることもできます。そして、折法というリズム法から離れた金農以降の無限微動筆蝕では、どれほど長い筆画でも、どれほど短い筆画でも、またどれほど直線的な筆画でも、どれほど曲がりくねった筆画でも、完全に自由に書けるようになりました。

  • 本来石に刻まれる書体である篆書や隷書を筆で書くようになったのは、清代に西欧列強が押し寄せたことに対し、文化的な抵抗意識が芽生え古い漢字文化が見直されるようになったからだった。同じ頃、幕末・明治期の日本でも、それまでの和様の柔らかな書体よりも、六朝北魏風の固い書体が隆盛した。これらは西欧列強が漢字表現に与えたインパクトと言える。