『<お茶>はなぜ女のものになったか 茶道から見る戦後の家族』

“お茶”はなぜ女のものになったか―茶道から見る戦後の家族
…そう問いかけられてみれば、確かに不思議に思えてくる。
へうげもの』を読むまでもなく、「お茶(茶道、茶の湯)」はもともと禅宗の僧が日本に紹介し、畿内の商人たちが趣味の域に持ち込み、その一人であった千利休が集大成し、戦国武将から江戸時代の大名を経て武士たちへと広まり、町人文化のひとつに組み込まれ、明治や大正には政財界の数寄者たちにより盛んに道具が収集され…いわば日本では始まりから数百年間一貫して「男の文化」だったはず。
それが現在では、茶道人口の9割以上(本書によれば)は女性となっている。私が通っている茶道教室でも、先生以下周りは女の人だらけ。一体何故?
著者の加藤恵津子氏(言語学的なアプローチで文化人類学の研究をしている方)によると、この男女逆転は第二次大戦を境にして起きているという。そしてその変化を追うことにより、戦後(とくに高度経済成長期に)確立された男女のジェンダー区分の一端を読み解くことができる、というのが本書の大まかな論点。
リサーチのために東京近郊の5つもの茶道教室に通ったという筆者。採録されたその生徒たちのインタビューも含め、なかなかに興味深い内容だったのだが、何がどう面白かったのかに触れる前に、そもそも私自身が何故お茶に興味を持ち教室に通うようになったのかを、改めて整理しておいたほうがいいかもしれない(…皆さん別に興味がないかもしれませんが)。

私が「茶」に興味を持った理由

毎日欠かさずやっていることだからか、私は「食うこと」について非常に興味があって、いろいろと食に関する本を集めている。以前も「食に関する本」を集中的に読んだことがあったが*1、そのときに読んだのはほんの一部で、この類の本だけで本棚の一段が埋まっているほど。
そんな私の中で、食に関してずっと気にかかっていた記述があった。
あいまいな記憶だが、最初に目にしたのは確か『美味しんぼ』の中で、海原雄山が「日本の料理の根本は茶の湯に始まる」とかそういうことを言っていたのだ。後に雄山のモデルでもある北大路魯山人の本を読んだとき、(もちろん魯山人の発言があって雄山の発言があるのだが)やはり同じように「日本料理は茶の懐石に始まる」と書いてあったのだが、お茶と言えば抹茶とお菓子を食べるだけのものだと思っていた私は、それを見ても茶と懐石がうまくつながらなかった。懐石料理というのは禅宗の料理のことではなかったか…とか、そんな感じで。
これが私が「茶の湯」に引っかかりをもったきっかけ。つまり先に日本料理に興味があって、その根本に茶の湯があるという意味を調べてみたら、茶事やら懐石料理に行き着いたというわけだ。
日本料理は食べに行くのも大好きなのだが、ちょっとした料亭などに行くと床の間には花が生けてあって軸が掛けられている。料理はきらびやかな器に盛られて出てくる。こういうのは「きれいだな」で済ませることもできるのだが、それではきっと料理の楽しみも半分しか味わっていないのではないか…と思い始め、どうせならそういう部分についても一通りの見方を覚えておきたいと思った。それに、礼儀作法の初歩くらい身につけておけば、格式ばった場に出ても気後れせずに雰囲気や料理を楽しめる、という考えもあった。
そういうわけで、じゃあ和食の源流と言われるお茶を習ってみよう、と決心したのだ。

再度、『<お茶>はなぜ女のものになったか 茶道から見る戦後の家族』

“お茶”はなぜ女のものになったか―茶道から見る戦後の家族
…というわけで本書に戻ってきた。
筆者は現代の「お茶」の構造を、大まかに次の4つに分析する。

  • 点前(てまえ)の訓練という身体的鍛錬
  • 茶会や茶事における他人の目を気にしたパフォーマンス
  • 利休以来の権威に裏打ちされた流派と免許(家元)制度
  • 「季節感」「慶弔感」「伝統的権威」というモチーフ

先に本書の結論を言ってしまうと、これらの要素が全て、戦後の女性(とりわけ都会の主婦)にとって好ましいものだったために、彼女たちの間に茶道が広まっていったということになる。
つまり、主婦たちは夫や子供、父母(義理の父母を含む)らの世話に献身を強いられたため、「自分の身体」以外の財産を持ちえず、他人から評価されることも少なく、何らの権威にも支持されずに生活してきた。筆者は茶道人口のかなりの部分を占める40代50代以上の女性たちをリサーチした結果、こうした主婦たちは夫・子供・父母の世話がひと段落した時に、かつて自分が若かった頃に「花嫁修業として」習ったことのある茶道に再び戻ってきて、身体の鍛錬・他人からの評価・免許や伝統的権威による支持を目指し、のめりこんでいくようになる…と説明付けている。
一方で男たちは、それらを全て会社から与えられていたというわけだ。


それともう一つ茶道を語る上での重要なポイントとして、以下のような記述があった。

 今日の日本の茶道修練者が<お茶>を見る時、そこには第二次大戦後ならではのユニークな見方がある。それは「<お茶>は総合文化」──すなわち茶道は、伝統的日本文化のあらゆる側面を包括するもの──という見方である。

つまり、お茶というのは単に茶を飲むことだけに終わらず、茶室という建築、露地という土木、床の間に掛けられた墨蹟に見られる古典文芸・禅の精神・哲学、生けられた花や料理に見る四季の移ろい、茶碗や茶杓、茶器に代表される工芸品、和服での美しい所作…という具合に、あらゆる日本文化の粋が集まったものだという考え方だ。
てっきり私もお茶とはそういうものだと考えていて、お茶を糸口にいろいろと「日本文化」に触れることができるだろうと思っていたのだが、筆者によれば実はこうした見方は、戦後になって裏千家の十五代家元千宗室が積極的に言及するようになって以来のものだという。

 高度経済成長期、「総合文化」言説は、西洋型の経済活動や産業化へのアンチテーゼとして、特別な魅力を持って響いたことと思われる。一九六九年の新聞記事で、一五代・宗室(当時宗興)は、茶道が「総合的な文化の体系」であると述べた後、こう続けている。「海外でも機械文明、物質文明に圧迫を感ずる今日、自分を見直そうとするひとときの憩いの場を、静かにたぎる釜の音に託そうとするのも不思議なことではありません」。

まあ考えてみれば、昔の人が昔の環境でやっていたことだから、伝統文化があちらこちらに見られて当然といえば当然なのだ。
この「お茶は総合文化」という考え方はその後あらゆる流派が採り入れるようになってきたが、多に先んじたのが奏功したのか、戦前は表千家や大日本茶道学会に準じていた裏千家の生徒数も、現在では本書によれば全茶道修練者の6割が裏千家、2割が表千家、残り2割がその他の流派と言われるまでになっている。
先日読んだ『冠婚葬祭のひみつ』*1ではないが、古くて伝統的に思える考え方も、実際には戦後に何らかの意図を持って創作されたものである場合が多いという、これもその一例でないだろうか。


私はいま茶道に関心を持っているので、本書はいろいろ学ぶところが多かったが、たとえば同じ習いごとという意味で、ピアノを習う人についても同じようなことが言えるのだろうか? ピアノは幼児期には男女の差が(比較的)少なく習い始めるが、中高生以上で続けているのは女性が多いイメージがある。だからこそ「もしもピアノが弾けたなら」なんて歌があるのだろう。

ベトナムからの客人

義父母の家に夕食に招かれた。いま義父母の家にはベトナム人のお客さんが来ていて、今日はその方を囲んで餃子パーティー。
その方との会話(英語と日本語ごちゃまぜ)の中で、「グウェン」というベトナム人に多い姓の話になって、これはホーチミンよりハノイのほう(つまり北のほう)に多い説明として、「あの辺りに昔あった『グウェン・ダイナスティ』に由来するから」と言っていた。
「グウェン・ダイナスティ」…「阮朝」! 大学入試の世界史以来、ものすごい久々に聞いた…。