ラタトゥイユの季節

スーパーに行くと、入口付近に夏野菜が並ぶ季節になった。

茄子やピーマンが山積みになっているのを見ると、そろそろ作りたくなるのが「ラタトゥイユ」だ。

トマト、ズッキーニ、玉ねぎ、ピーマン(パプリカ)、茄子などをニンニクとオリーブオイルで軽く炒め、そのままにじみ出た水分で煮る、簡単な料理。

野菜を大きくゴロッと切るか、細かく切るか。軽く熱するかくたくたになるまで煮込むか。温かく食べるか冷やして食べるか。パンに乗せるかパスタに乗せるか焼いた肉にかけるか。

いろいろバリエーションがあるが、以前ゴロッとして歯ごたえが残ったままのものを冷やして前菜的に出されたのを食べたことがあり、あれが美味しくて再現したいのだがなかなかうまくいかない。

料理に自信がない人は、基本的には煮込んでしまえば野菜の旨味が勝手に出るので失敗はないだろう。

余ったら、野菜と水を足してカレールーと混ぜてしまえば、夏野菜カレーになるのも便利。

“インテリ”と”非インテリ”と

映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を遅ればせながら見てきた。
1969年に東大駒場キャンパスの900番教室(大講堂)で、1000人からの学生を相手に「保守」三島と「革新」全共闘(および見物の学生)たちが、議論を戦わせた記録映像だ。
この討論会というかシンポジウムについては、すでに『美と共同体と東大闘争』という実録の文庫版を読んだことがあり、議論の大筋は了解していた。そのときの感想としては、非常に理想主義で観念的なテーマをふっかける学生たちと、微妙にはぐらかすような三島との間で、なかなか議論が噛み合わないな…というはがゆさのようなものだった。

 

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

 

 

今回、映画というメディアで映像と音声で同じ内容を確認したことで、当時の熱気や、三島も学生も最初はそれなりに緊張していた様子、そしてそれが次第に歩み寄り四つに組み、最後は(議論が噛み合わないなりに)何か充実した感じで散会した…という様子が見て取れて、興味深かった。

 

 

たまたま同じタイミングで、梅宮辰夫主演の「不良番長」という映画を見ていたのだが、1968年の公開ということで、あとから思えばまさに東大安田講堂立てこもりの年の作品だった。

 

不良番長

不良番長

  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: Prime Video
 

 梅宮辰夫率いる愚連隊が、のっけから海辺でカップルを強襲して女性を集団レイプするわ、新宿で引っ掛けた女の子を夜の街に売り飛ばすわ、ヤクザ相手に切った張ったの掛け合いをするわ、もう無茶苦茶なのだが、これがヒットしてシリーズ化していったらしい。

東大で三島由紀夫全共闘が討論していた同時期に、「不良番長」「愚連隊」の世界も(もちろんかなり誇張されたフィクションとはいえ)若者たちに人気を博していた、というのもまた事実なのだ。

 

 

900番教室の討論は、攻撃的な学生たちに対し、どこまでも交わらないながらもどこか交われる接点を見つけ出そうと真摯に向き合う姿勢の三島…という図式で、これはこれでかなりスリリングでもあり見応えもあり、私なりにも感じるところはあったのだが、たった一つの違和感があったとすれば、「ここに参加しているみんな、教養豊かな知性を信じる知識人である」というところだろうか。言うまでもなく、こんな映画を喜んで見に行っている私もまた(到底及ばないながらも)彼らと同じ知性を信じる側の人間だ。

そこで思うのだが、新宿でたむろする「不良番長」やヤクザたちに、この討論会のテーマは果たしてどうとらえられるのだろうか? 東大の学生も三島由紀夫も、愚連隊たちに届く「言葉」「行動」は持っていたと言えるのだろうか…?

分断などというつもりはないが、これは現代にも(自分にも)跳ね返ってくる問いだと感じた。

 

 

討論会の最後で、三島由紀夫は学生たちにこんな言葉を残していった。

そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。

映画も最後、「900番教室には熱量と敬意と言葉が満ちていた」といったまとめ方をしていた。

言葉の比喩として 、お互いの思想への敬意を熱量と表すのであれば、熱量とはエントロピーの増大とともに拡散し消えていくもの…といった比喩もまたできるのではないか。

あの時代の駒場に、新宿に、そして日本のどこかにあった熱情は、いまは冷めてはいるが日本社会に偏在しているのかもしれない。

それこそ、エントロピーの比喩にもう一つ悪ノリして言うなら、「言葉」のエントロピーは熱情よりは増え方が遅いのかもしれない。そのように思っていたからこそ、三島は(文学者は)「言葉」を信じていたのではないだろうか。

水滸伝

水滸伝を読みたいな」と思い立って、杉本苑子さん版(全5巻)を購入。

これまで村上知行版、吉川英治版、柴田錬三郎版を読んだけど、いずれも物語は未完なんだよな。大体108人が集結するところまでで終わってしまう。そのあと官軍に入ったりしつつ滅びるところまで読みたい。

最終的には北方謙三版を読めばいいんだろうけど、あれは長すぎる(全20巻)。

 

でも水滸伝の前に、今年も赤穂事件の本を読む季節だ。時が流れるのは早いな。そう思って四十七士物の小説も4冊ほど買ってきた。

 

「四十七士とか百八星とか、なんか数に興味関心があるのかな」とつぶやいたら、つれあいが「101匹わんちゃんとか?」だって。

ベランダ菜園の反省2020

10月に入りグリーンカーテンやプランタの野菜などをいったん片付けた。今年の夏のベランダ菜園の反省。

  • (よかったこと)メダカの鉢に昨年植えたハスの花が初めて咲いた。
  • (悪かったこと)昨年採取したアサガオやヒマワリの種、自家製のものはやはり勢いも花も弱かった。来年は素直に新しい種を買って植えよう。
  • (悪かったこと)全体的に土がよくなかった(肥料が少なかった)かな。グリーンカーテンミニトマトも、思ったように生い茂ってくれなかった。来年は肥料をいろいろ試したい。
  • (その他)とはいえ、緑に囲まれたベランダでくつろぐのは、ステイホーム期間にはうってつけの過ごし方。来年もチャレンジしたい。

コロナ時代の観戦

スポーツイベントへの客入れが、徐々に再開され拡大しつつある。

大体のイベントは無観客ではじまり、ストリーミング中継などでの観戦がメインだったわけだが、最近では徐々に観客も入りはじめ、「5,000人以内」の制限がかかっていた頃は中継を見ていても「スカスカだな~」と思えたのが、昨晩のナイター中継なんかを見ていると「結構密だな~」という感じにまで戻っている。

コロナ前までの大観衆が近々戻ってくるのだろうか…というと、正直疑問に思う。みんなおっかなびっくり盛り上がるなんて、ライブの意味が半減だから。そういう意味で、昨今の客入れは、むしろ「それをネットで見ている観客への盛り上げ」の手段という意味合いを担わされているのかな、とも思う。ようするに、そこそこ入っているスタジアムの静かな「新常識の」応援をリビングで見つつ、「おお、盛り上がってるじゃん、これは酒が進むわ」というわけだ。

そんななか、面白いと思ったのは、アメリカのプロレス「WWE」でやっていた、「サンダードーム」という新しい観戦?方式。リングを取り巻く観客席の代わりにモニタが四面に配され、そこにファンたちが家で観戦している様子が映し出されるというものだ。

WWEオフィシャルサイトの「ThunderDome Frequently Asked Questions」によればいまのところモニタに映る権利は無料のようだが、この枠をチケットのように売れば「おれ昨日の試合でリングサイドに映ってたぜ!」というファン心理をくすぐる誘客もできそうだ。

実際、サンダードームで自分の顔が映ったことを興奮気味に語る少年の動画がアップされていた。


FRONT ROW EXPERIENCE In The WWE ThunderDome!!

リアルな指定席と違って30秒に一回とかで映される人が入れ替わってもいいわけだから、「チラッとでもストリーミング中継に映る権利を買う」と考えれば、意外と高く売れるのではないだろうか?

(コートが広い競技だとちょっとキツいかもしれないけど)

なぜかいまジャミロクワイ

Jamiroquaiが、夏の夕暮れ時のサイクリング(a.k.a.自転車通勤)に合うみたい。


Jamiroquai - Canned Heat (Official Video)

 

「Blow Your Mind」を聴いたあとに、Corneliusの「The First Question Award」の「Raise Your Hand Together」を聴いてデジャヴ感を得るフルコース(両方聴いていただければ何を言いたいかわかってもらえるはず)。


Jamiroquai - Blow Your Mind (Official Music Video)