「化けそうな傘かす寺の時雨哉(しぐれかな)」

与謝蕪村の句。昨日の「NHK俳句」のビデオを見たら、大学のときに学んだ小松和彦さんがゲスト出演していて、思い入れのある句としてこの句を挙げていた。
ようは、通り雨にあったのでお寺で傘を借りようとしたらカラカサのお化けにでもなりそうな破れ傘が出てきた、という情景を詠っているのだが、この語句の並びが非凡ではないか。
普通に考えると「傘かす寺の時雨」では意味が分からない。出来事の起きた順序に並べ直すと「時雨降り寺でかりたる化け傘や」とでもなるのだが、しかしこれでは全く面白みがない。時制と逆の順序に並べたことにより、「化けそうな」が活きてくるわけだ。そして下の句「時雨哉」の「かな」(詠嘆の助詞)は俳句でいう「切れ字」なのだが、この後に余韻というか空間の広がりが見えてくる。
つまりこの軽妙な句に見られるのは、五七五の17文字という制約の中で世界を活写する俳句ならではのアクロバットであり、それを許容する日本語の魅力でもあると私は思った。