『金閣寺』

金閣寺 (新潮文庫)
三島ヅケ第4弾。
1950年(昭和25年)に金閣寺が門弟の一人により放火され消失した事件をモデルに、「美とは何か」を突き詰めた三島由紀夫の代表作。


実在の放火僧と同様、この作品でも主人公は生まれついての吃音(どもり)で、頭に思い浮かんだことが言葉として口から放たれ相手に伝わるまでに、タイムラグが生じる。
そしてそれは、「実行されるまでに常に躊躇される意思」として、彼自身の生き方のメタファーにもなっている。

 言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。私特有の誤解である。行動が必要なときに、いつも私は言葉に気をとられている。それというのも、私の口から言葉が出にくいので、それに気をとられて、行動を忘れてしまうのだ。私には行動という光彩陸離たるものは、いつも光彩陸離たる言葉を伴っているように思われるのである。

主人公は頭で思い描くだけで、行動に移ることができない。「金閣寺の美」をはじめとして、世界は常に彼が行動により発見するものではなく、自明のものとしてそこにあるのだ。
そうした「自明の世界」の象徴としての金閣寺
主人公は、当初は戦火によって金剛不壊の金閣寺が焼失してしまえば、「自明の世界」が逆転し自分が生活者になれる…と夢想するが、結局京都は空襲の被害を受けないまま終戦を迎えてしまう。ここで主人公が抱いた失望感は、三島由紀夫自身が終戦時に抱いた失望*1と、ほとんどイコールだろう。


そこで主人公が選んだ行動が、自ら金閣寺に火をつけること。これにより主人公は、人生でほとんど初めて、「行動」をおこなうことができたのだ。


そういう意味でこの作品は、初期の短篇「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」*2において早々と提示されている、三島作品の主要テーマのひとつ「思想者vs行動者」を描いているのだと思う。
「思想者」である主人公と対比される「行動者」として登場するのは、重度の内翻足でありながらそれを逆手にとって(?)女をたらしこむ友人・柏木。途中まで「思想者」である主人公の「美しい誤解に満ちた代弁者」として登場するのは鶴川少年(この鶴川を語る主人公の口調は非常に同性愛的)。


作中、重要なモチーフとして提示される禅の講和「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」の話。金閣寺の老師が、終戦の日に主人公ら寺僧たちに語った講和として紹介されている。

 唐代の頃、池州南泉山に普願禅師という名僧があった。山の名に因んで、南泉和尚と呼ばれている。
 一山総出で草刈りに出たとき、この閑寂な山寺に一匹の仔猫があらわれた。ものめずらしさに皆は追いかけ廻してこれを捕え、さて東西両堂の争いになった。両堂互いにこの仔猫を、自分たちのペットにしようと思って争ったのである。
 それを見ていた南泉和尚は、忽ち仔猫の首をつかんで、草刈鎌を擬して、こう言った。
「大衆道(い)ひ得ば即ち救ひ得ん。道(い)ひ得ずんば即ち斬却せん」
 衆の答はなかった。南泉和尚は仔猫を斬って捨てた。
 日暮になって、高弟の趙州が帰って来た。南泉和尚は事の次第を述べて、趙州の意見を質した。
 趙州はたちまち、はいていた履(くつ)を脱いで、頭の上にのせて、出て行った。
 南泉和尚は嘆じて言った。
「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」

まさに禅の公案。ちょっと理屈のわからないエピソードなのだが、柏木が主人公に言い放つ解釈によるとこうなる。

「そら来た。行為と来たぞ。しかし君の好きな美的なものは、認識に守られて眠りを貪っているものだと思わないかね。いつか話した『南泉斬猫』のあの猫だよ。たとえようもない美しいあの猫だ。両堂の僧が争ったのは、おのおのの認識のうちに猫を護り、育み、ぬくぬくと眠らせようと思ったからだ。さて南泉和尚は行為者だったから、見事に猫を斬って捨てた。あとから来た趙州は、自分の履を頭に乗せた。趙州の言おうとしたことはこうだ。やはり彼は美が認識に守られて眠るべきものだということを知っていた。しかし個々の認識、おのおのの認識というものはないだ。認識とは人間の海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。彼はそれを言おうとしたんだと俺は思う。…(後略)」


この物語の主人公は、そのまま三島由紀夫本人なのだと思う。
金閣寺』の主人公は、金閣寺に永遠の美と世界を逆転させる鍵を夢見て破壊し、なおかつ最後には「生きようと私は思った」という終わり方をしている。
しかしこの作品を30歳のときに書いた当の三島由紀夫は、永遠の日本の美という幻想を抱き、自力で世界を逆転させようとして失敗し、45歳で自ら命を絶ったのだ。

*1:仮面の告白』に詳しい

*2:7月13日の日記参照