『書のこころ』

書のこころ (NHKライブラリー)
先日亡くなられた榊莫山先生の追悼の意をこめて、いつか古本屋で購入してから書棚にしまいっぱなしだったこの本を読んでみた。もともとはNHKの「人間大学」で放送された莫山先生による古今の書の批評シリーズのテキストを、文庫版にまとめなおしたもの。
三筆、三蹟から一休、良寛會津八一と年代順にいわゆる書の名人を追っていくのだが、その合間に、正倉院の宝物殿に伝わっている天平の昔の「欠勤届」や正長の土一揆(1428)当時の決起文など庶民の手(文字)についてのあたたかい評が入るのも、莫山先生のお人柄。

 汗のにじむ直訴状の文字は、とつとつと、うらびれて下手くそで、そこはかとなくもの悲しい。
 美の類型の一つに、稚拙美というのがあるけれど、これぞ稚拙美の権化である、とわたしは思う。権化というのは神の化身。わたしはこの農民の直訴状には、神の心がひそんでいるように思えてならない。
 そして、人人の心の叫びを背にして、ちびれた筆で、これをかいた萬さんの筆のタッチに誠心誠意の書の美しさを感じてしまう。

昨今の「ヘタうま」いんちき書画は、果たして「権化」と言えるような代物だろうか?


私は書は全くの素人で、何が良くて何が悪いのかも分からない手合いだが、本書を読んで一つ得心するところがあったとすれば、結局「書」というのは書いた人の気持ちを表す(現す)ものだということだ。
唐から密教とともに書のニューモードを持ち込んだ気負い満点の空海の書、髭題目とも称される独特の美学を放つ日蓮の書、「まあそう堅くならずに…」と懐深く包み込まれるような白隠や仙突の書、肝の座った副島種臣の書、その生涯と重ね合わせるにつけ叙情を感じずにはいられない啄木の書…。
莫山先生にかかると、「三蹟の一人」としか知らなかった藤原佐理も、こんな具合なのである。

大鏡』に、佐理の名がでてくるが、評判はよくない。佐理は、書はうまかったけれど、
  御心ばへぞ、懈怠者、すこしは如泥人ともきこえつべくおはせし……
と、佐理への評価は辛辣である。物臭でなまけ者で、酒のみのぐうたら兵衛だ、と決めつけられている。
 佐理の書は、国宝「離洛帖」を頂点にして、いくつか残っているが、そのどれもが、『大鏡』の佐理評をうなづかせるような内容ばかりでじつに楽しい。
(中略)
 ここで、わたしは書とは何か、と問わねばならぬ。ふつう、書を習うときは、心を落ちつけて静かに筆を執らねばならぬ、とわれわれは教えられた。そして、そう思って筆を執る人は多い。
 しかし、この佐理の名作は、けっして平穏な気分のなかでかかれたものではない。にもかかわらず、この「離洛帖」は、ただ平安の劇跡(名作)というばかりか、日本書道史でも稀有の名跡として、評判は高い。


「あとがき」で莫山先生は、こんなふうに述べている。

 書の鑑賞も、書の評価も、ともに大変むずかしい。かんたんに<書は人なり>と言ってしまうわけにはいかぬ。
 えらい人の書は、かならずよい書であるわけもなく、名もない人の書にも、泣けてくるようなよい書がある。

「泣けてくるようなよい書」を書いた先達たちに囲まれ、莫山先生は今頃空の上であの呵呵大笑を見せていることだろう。合掌。