『能楽への招待』

能楽への招待 (岩波新書)
観世流シテ方の梅若猶彦氏による能楽の入門書。氏自身がロンドン大学で西洋演劇を学んだ経験なども踏まえ、簡潔でありながら先鋭的なところもある、なかなか興味深い本だった。
西洋演劇と能との対比で、形附(能の振付)は内面的で絶対的なものであるのに対し、シェークスピア劇の振付は脚注という形で400年間文学として伝わってはきたが、現在の演出上は無視してもよいものとされていることが紹介されている。
筆者によれば、能では演じ手の内面の変化が重要とされるため、固定された参照点としての「型」が必要になってくるのは仕方がないという。つまり振付が自由自在に変化しては、かえって内面の変化が読み取れないという思想である。
その意味において、「日本文化は『型』の文化である」…という論*1について、筆者は「型は本来手段であって最高の目的ではない」と反論しているのが興味深かった。


もう一つ面白く感じたのが、アジア6ヶ国から演劇者が集まってシェークスピアの「リア王」の再解釈演劇を演じた時の話。これは能の核心に迫るエピソードだと感じた。
演出はシンガポールのオン・ケンセンという人が担当したらしいが、この人は各国の俳優に即興形式で演技をさせ、それぞれの良い箇所を採択しながら全体を組んでいく…という演出方法をとったらしい。演者は各自のバックグラウンドを活かしつつ「リア王」に挑んだわけだが、現代劇の俳優たちはいとも簡単に即興の演技を披露したの対し、筆者と京劇の俳優の2人だけは、なかなか即興形式に馴染めなかったそうだ。
ところがリハーサルや公演を重ねるうちに、あれほど簡単に繰り出された現代劇の役者たちの演技は、徐々に形を変えざるを得なかった。それは役者自身が演技の固定化に飽きるのか、他の身体的な理由からなのか分からないとしつつ、筆者と京劇俳優の演技だけは、最初から最後まで変わることがなく、しかも「一番賞味期限が長い」と演出家に言わしめたという。
もう一つこの時の話で示唆的だったのが、筆者がある日のリハーサルでふと気を抜いていたところ、舞台袖から見ていた日本の知人にすぐそれがバレてしまったという出来事。そこで筆者がその人に、「では私が『羽衣』(能の演目)で気を抜いていたら、それが分かりますか?」と尋ねたところ、「それは分からない、『羽衣』に気力が感じられなくても、そんなものかなと思う」と答えたという。

 『リア』では、それがたとえどれだけ難しい身体性であったとしても、またそれが抽象的であっても、現代劇の枠で見ているかぎり、身体性が舞台上で効力をしめしているかどうかの判断はできるわけです。しかし、伝統的な能楽である場合、ましてそれに慣れ親しんでいない観客は、能面や装束で武装した演者に対しては、判断を保留にするということです。それがおもしろくなくても、「『羽衣』はこんなものか」という理由とともに。
 このとき以来、私は表面上の演技や心理は二の次にして、内面の操作を最優先することにしたのです。そして、なんの動作もしていないときでも、内面がいかに強烈な印象を与えるかを知ったのです。(後略)

表現者にとっての内面」という論を膨らませ、巻末で筆者はこんな風に結んでいる。

 どのような場合であっても、表現者は内的な原理に興味をしめすものです。身体への作用がおきる場所、またそれを引きおこす内部の信号の浅深、はたしてそれが自覚できる場所なのかそうでないのか、またそれは他人に説明できる場所なのかそうでないのか、が身体表現者である世阿弥以降の数々の能楽師たちの関心事だったと思います。
(中略)日本の芸能の精神史は、かいつまんでいえば日常的な所作をいかに非日常にするかという内界の探求だったように思います。(後略)


ところで以前『能と狂言の基礎知識』という本を読んだ際、新たに芽生えた疑問として「なぜ能のセットは簡素なのか」というのを書いたが*2、その答えにつながる記述を見付けた。どっしりとした能舞台とは対照的に、公演の都度作られて壊される作物(作リ物=能の小道具)について書かれた一文。

 能舞台は荘厳なたたずまいであり、そこからは絶対的な安定感を感じさせます。その荘厳な舞台の上で舞う身体は、その空間や空気を揺さぶるほどの威力をもつことが望ましいとされています。能舞台に身体が向きあったとき、融合するというより、身体が何もない空間を独占する必要があります。
 ですから能楽師は自分の肉体よりも寿命の長い文化財である能舞台に対して、身体の優位性を意識しなければならないのかもしれません。このとき能楽は驚くべき芸術となるのです。
(中略)それにくらべて作物はどうでしょうか。その軽すぎる存在は身体とどうかかわっているのでしょう。
 身体と作物とでは優位性もなにもないでしょう。身体の優位性は誰の目にも明らかです。
 能楽師は、荘厳な舞台上で、蹴飛ばしたら飛んでいってしまう作物のかたわらで舞うわけです。これはまるで人間の手では割ることのできないヤシの実(能舞台)と、ひびの入った卵(作物)を同時にあつかうようなものです。
(中略)こうしてみると、作物は能楽の歴史的美学が選択した玩具といえるでしょう。ネコが鞠をネズミがわりにもてあそんでいるごとく、鞠は作物にたとえられます。ネコと鞠の関係は、能楽師と舟(引用注:舟の作物を例に取っている)の関係に似ているかもしれません。ネコは鞠がネズミでないことを知っていますし、じゃれるのを見ている人もそれを知っています。そのうえでネコが鞠と戯れるのを楽しむことはできるのです。

いまいち咀嚼しきれないところもあるが、ようは演じ手を際立たせるための抽象化の過程で、演じ手以外の舞台上のリアリズムが捨象されていった…ということだろうか? 別の部分で筆者は、能では語り手が死者であることが多く、これが能の特殊な抽象性のもとであり不条理のはじまりでもあると書いているが、それもまた演じ手を際立たせるための必然だったのかもしれない。

*1:こういう類の日本論がかつて流行ったことがあった。能から武術、はては高校野球にいたるまで、日本ではまず「型」を徹底的に刷り込まれるところに特徴がある…とか何とか、そういう話。

*2:9月9日の日記参照。