『ベルリンの壁の物語(上)』

ベルリンの壁の物語〈上〉
何故かいま、私の中で「ベルリンの壁」への興味がふつふつと沸いてきている。
壁が崩壊したのは1989年11月9日。当時私は14歳の中学生で、自分が生まれたときから存在していた壁が何故作られて何故壊されたのか、何故世界がそれに狂喜して何故その後の統一ドイツに混乱が生じたのか、それらをイマイチよく理解しないまま、大人になってしまった。その辺のモヤモヤを解きたくなってきたわけだ。
この本は英国人ジャーナリストのクリストファー・ヒルトンが、壁に関わった様々な立場の人を丹念に取材し、古い資料を渉猟し、壁ができた1961年当時から壁が崩された1989年当時までのベルリン市内の様子を、事実を淡々と積み上げて記した労作だ。上巻は壁が突如として市内を二分した1961年8月13日からの一年間が山場で、下巻は民衆により壁が崩された1989年11月9日がクライマックスとなる。


1961年8月13日。日付が変わったばかりの午前1時過ぎに、東ドイツの軍隊、警察、労働兵に召集がかかる。かなりの人数が眠っているところを叩き起こされ、ベルリンを二つに分ける、45.8キロに及ぶ複雑な境界線を封じる作業に駆り出されたのだ。その前日までは東西ベルリンを自由に行き来できた東ベルリン市民は、週あたり数千人に及ぶ西側への亡命を防ぐために作られたこの壁により、強制的に東側に囲い込まれたのだ。
境界は最初は張り巡らされた鉄条網の形で出現し、やがてコンクリートの壁となる。

 それから一年以内に監視塔が一一六ヵ所に設置され、壁は段階的に洗練され、第一世代、第二世代、第三世代、第四世代まで改築されて、最終的にはよじ登るのがきわめて困難になった。それは高密度の鉄筋コンクリート製で、L字形をした部材一つは高さ三・六メートル、幅一・二メートルだった。
 この第四世代の壁が、のちに倒されることになったわけだ。

東ドイツ(とその背後で手を引くソ連)によって突然行われたこの暴挙に対し、しかし西側諸国の反応は鈍かった。当時世界のヒーローとして熱狂的支持を得ていたアメリカのケネディ大統領ですら、壁は東ドイツ側に建設された以上直接干渉はできないという立場だったらしい。それは、何がきっかけで第三次世界大戦が起きるか、核のボタンが押されるか分からない…という恐怖が、当時は相当のリアリティを持っていたからだという*1


ある日突然、通りの向こうに行けなくなる。隣町に住む家族や友人に会えなくなり、街の反対側の職場に通えなくなる。そんな不条理が目の前に出現したベルリン市民の、当時の気持ちは計り知れない…。
離れ離れになった彼らが再び自由に往来できるようになるのは、それから実に38年後を待たなければならなかったのだ。

*1:ちなみに「キューバ危機」はこの翌年1962年10月に起きる。