『ケータイ小説的。 〜“再ヤンキー化”時代の少女たち』

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
1999年から2006年までテレビのない生活をしていた私にとって、その頃のJ-POPやお笑いタレント、テレビ番組などは、ほぼ完全に空白地帯となっている。だから浜崎あゆみの曲なんてちゃんと聴いたことがないし(今になって聴き返したりしている)、この本で試みられているようにきちんと歌詞の内容について考えたりしたこともなかった。
ベストセラーになっているケータイ小説については、ほとんど説話的と言ってもいいくらい「告白→裏切り→DV→レイプ→恋人の死」みたいな類型がある。なんで飽きもせず同じような話を喜んで読むのか不思議に思っていたのだが、本書を読んで、この類型はつまり「みんながリアルと思いたがっている“リアル”」なのだということが、おぼろげに理解できた。つまり「本当にあった怖い話」的な、都市伝説の末葉みたいな側面があるのだ。自分の身の周りに実際に体験した人はいないけれど、友達の知り合いに実際にそんな目にあった人がいる…みたいな感じ。
そうした読者たちは、あゆの歌詞に“リアル”を感じるタイプ、逆に言うとフィクションの世界に想像を羽ばたかせるなんてことは苦手とするタイプであり、類型的であることによってむしろ「だから信じられる」という安心感を担保するのかもしれない。

 ファスト風土化という言葉の定義を三浦展は「地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、代わって、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した」状態と説明する。(中略)
 しかし、ファスト風土化は、人間性や人間らしい生活を剥奪するために進行したものではなく、現代の社会の在り方に添って生れた新しい環境に過ぎない。それは、われわれが何モノで、何を求めているかを正直に反映しているものでもあるのだ。
 ファスト風土化を嫌うことは、現代人の自己嫌悪である。

言いえて妙だと思うが、この辺りの視点、近現代の知識階級と一般庶民との相互関係を雛形にして考えていくと、話が広がって面白いかもしれない。