『優駿(上)』

競馬漬け第13弾。映画化もされた宮本輝の競馬小説。
オラシオン」と名付けられた一頭のサラブレッドを軸にして、その生産者、馬主、馬主の娘、馬主の隠し子、馬主の秘書、調教師、騎手などなどが繰り広げる人間ドラマ。
おそらく非常に丹念な取材に基づいて書かれているのだろう。競馬に詳しい人にも違和感なく訴えかけるディテールの描き方に、何度読んでも感心させられる。これ以上にポピュラリティが高く内容が濃い競馬小説は、もしかしたら日本では今後書かれることは二度と無いのではないだろうか。
「これはあの人がモデルなのでは?」と競馬ファンがニヤリとするような人物も出てくるなど、ややマニアックとも言えるほどの細部の凝りようの反面、キャラクター設定が若干変に感じられる登場人物もいるのだが(とくにヒロインの「純粋な反面計算高い女子大生」というのはちょっと…)、まあそれは群像劇を成り立たせるためのご愛嬌ということで。
それぞれに「泣かせる」エピソードを背負った登場人物たちの中で、今回改めて読んで私が一番興味を覚えた人物は、オラシオンの馬主の秘書の多田という男。幼くして母親に捨てられ、貧乏な学生生活を送り、「木でできた人間」と評されるくらいどこまでも醒めている多田という人物が、競馬に翻弄される人間たちを見る視線が面白い。競馬場の馬主席での一節。

 この色彩豊かな空しい世界は何だろうと多田は思った。ここで己を燃やす人たちが疲労しない筈がない。己の中の最も重要な精気を、知らぬ間に、この芝生と馬ときらびやかな勝負服とが混ざり合った奇妙な静けさに吸い取られて行くのだ。佐木がしばしば口にする悪魔的という言葉は、ある確かな実感となって多田の脳裏に浮かんだ。この広大な芝生、馬主の符丁を示す悪趣味な勝負服のさまざまな色や柄、そして物言わぬ美しい生き物。それらがひとつになったとき、まがうことのない地獄をつくりあげてしまう。ここは地獄だ。美しさを装った地獄だ。夢なんか、どこにもあるもんか。

多田の生まれ育ちや苦学生の頃のエピソードなどを読むと、そこには作者である宮本輝自身の影が投影されているようにも思った。


上巻は、オラシオンを巡る人々が一通り出揃ったところで紙数が尽きる。オラシオンのデビューとその後の活躍、そして運命の幕切れまでの物語は、下巻に譲られる。

優駿〈上〉 (新潮文庫)

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