『日本競馬論序説』
競馬漬け第9弾。
その昔、私が競馬にハマりつつあった頃に買った本。競馬好きで有名だった作家の山口瞳氏と、同じく作家で競馬評論家の赤木駿介氏の対談をメインに、山口・赤木両氏のそれぞれの馬券戦術を披露する章を加えてまとめたもの。
競馬にハマるきっかけは「馬がきれい」とか「競馬ゲームが好きだった」とか人それぞれだろうが、最も多いのは「最初に買った馬券が当たって味をしめた」というパターンではないだろうか。私もそのクチ。
そういう「一攫千金派」は、とかく馬連や馬単、三連単といった高配当が期待できる馬券に手を出すのだが、この本で赤木氏は「競馬の醍醐味は単勝・複勝だ」と提唱し、さらに予想についてもタイムだの調教だの血統だのは参考程度で「パドックが最重要項目だ」と断言している。このやり方だと派手に大儲けすることはまずないのだが、長い眼で見ると大損はしない上に、自分の目で選んだ馬を応援する喜びが得られ、快勝したときには儲けプラスアルファの楽しみが得られるという。たとえて言うなら、高校野球でよくは知らないけど好感を持ったチームを応援する感じに近いだろうか。
赤木氏はそのパドック診断の極意をかなりのページを割いて丁寧に説明しており、私も昔はこれを参考に単・複ころがし*1を試みたものだった。全然増えなくて、すぐにまた元の一攫千金派に戻ったけど。
また、国立市に住んでいた山口瞳氏は、府中にある東京競馬場で競馬をやっている時期は毎週訪れていたそうで、朝から最終まで12レース全てを、自分の席とパドック、発売所(そしてたまに払戻し所)を往復することで、一日に2万歩以上歩くことができ、恰好の健康法になったと書いている。私はこれも実践したことがあって、12レース競馬場内を行き来してヘトヘトになった覚えがある。
そういうわけで、この本を読み返しながら、私が競馬初心者だった頃にいろいろと真似した思い出がよみがえり、面映い気持ちになった。
いくつか目に付いた箇所のメモ。
山口 パドックへ行くと馬体重が表示されるわけですけど、馬体重を重視する人が多いんですよね。
赤木 私は最初から馬体重というのは変だと思ってたんですよね。発表すること自体がおかしい、といまでも思っているのです。馬体重を発表しているのが日本とブラジルだけだってことも言っておいた方がいいですけど、数字というものが非常に説得力のあるものですから、四六〇キロと四七〇キロの十キロという数字の差が、ものすごく重大なことのように頭の中にインプットされちゃいますから、これは良くないというふうに思うわけですよ。
ブラジルの競馬については詳しくないが、日本とブラジルの他に香港も馬体重を発表していたと思う。改めて考えてみると、確かに馬体重を発表しない国のほうが圧倒的に多い。どういう理由があるのかな?
戦前のわが国の競馬は、有志の出資によるクラブ組織が運営していたために、本場の競馬と同じようにみられ、現在になっても、この固定観念は容易にぬけきれないままでいる。(略)
だが、クラブ組織だった戦前の競馬も、少し考えてみると、時の支配者層の強い干渉のもとで施行されていたことが分かる。すなわち、陸軍馬政局と農商務省畜産局の二つの、いわゆる役所(官僚機構)によってである。
(中略)
ところが、大正十二年以降の日本の競馬は、幸か不幸か、支配者層でないグループによって作られてきた。たとえ、官僚の後楯があったにしてもだ。しかも、その運営の母体、基盤が、一般大衆の買う馬券代によって支えられているとなれば、いよいよ日本の競馬の特異性が分かるというものである。
たぶん、世界の競馬国の中で、わが国ほど一般大衆が競馬を支えているところはない、といっても過言ではないだろう。
(赤木)
大正十二年というのは競馬法が制定され、馬券の発売が法律で認められた年。確かに日本ほど馬券の売上げによって競馬が支えられ伸びてきた国は、世界に類を見ない。
誤解されるのを覚悟して書けば、競馬は単純なものである。勝つか負けるか。好走するか凡走するか。好調なのか不調に近いのか。上級に進めるのか、現級どまりか。
いってみれば、競馬はすべて、二つに一つで成り立っている。肩の力を抜いて、ごく気楽にやりたいものである。ただし、馬が分かってくればくるほど、競馬の奥深い面白さの俘虜(とりこ)になってしまうことは覚悟しなければならない。
今日の最終レースは明日の第一レースにつながっている。その日の結果が思わしくないからといっても、けっして力を落とすことはない。ふつうのお金で楽しむのなら、競馬は一生楽しくやっていける。
(赤木)
ごもっとも。