末を知らずに舞う…

先日行われた現地学習*1に続き、今日は鳥取藩主池田家墓地についての講習会に参加した。
池田家の系図をひもときながら、江戸時代の屏風図に描かれた小牧・長久手の戦いでの池田氏の戦いぶりや、明治初めの名所図会に描かれた墓地の様子などを解説していただいた。


そんな中で感銘を受けたのが、藩主池田家の分家・通称「西館」の5代目当主である池田定常(号・冠山)の娘、露姫の物語だった。
定常の第十六女である露子は、幼い頃から信仰心に厚く寺社を参り観音様に深く帰依していたという。しかし江戸時代には死亡者の7割ほどが乳幼児だったそうだが、この露姫も数え年6つにして疱瘡に倒れ、短い生涯を閉じた。
その死後、文箱などから露姫の書き残した文が見つかったのだが、そこにはとても6つの幼女が書いたとは思えない、自分の死を予見して達観をしていたかのような詩が書き綴られており、あわれに思った父・冠山がこれらの遺墨を世に広め、やがてこれを知った僧侶らによって木版に写され出版され、文政の世のベストセラーとなって庶民の涙を誘ったのだという。
露姫の残したという文の例として、兄に宛てたこんな詩がある。

おのかみの すへおしら(ず)に もうこてふ
   (己が身の 末を知らずに 舞う小蝶)
つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
   (露ほどの 花の盛りや 稚児桜)
あめつちの おんはわすれし ちちとはは
   (雨土の 恩は忘れじ 父と母)

また、母に宛てた「遺言」にはこうある。

まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこりおしさに
   (待てしばし 亡き世の中の 暇乞い 六歳の夢の 名残惜しさに)

このようなちょっと子供とは思えない優れた詩歌が、たどたどしい手で書き綴られた手紙の写しが、現在も残っているそうだ。
ただこの逸話は私に言わせればやや眉唾ものではあると思う。わが子を失った悲しさで、父親の冠山が多少の創作を行ったのではないだろうか…?


こうした話を聞いて私が思ったのは、「後世に残る話というのは恣意的なものであり、また偶然によるものだ」ということだった。
露姫のエピソードは、(おそらく)父親や菩提寺の僧侶たちの手でプロデュースされて世に広まった。これは恣意的な作用の結果だろう。しかしそうして作られて狙いどおり人口に膾炙した「良い話」が、いまとなっては全く忘れ去られている。昔話や説話や歌舞伎の演目として残るべき可能性はあったのに、この話がそうならなかったのは、偶然によるところも大きいのではないだろうか。
同じように考えていくと、たとえばいま我々が同時代として体験している事件や物語のうち、100年先、200年先まで残っているエピソードというのはいったいどんなもので、またどうしてその話だけが生き残っていくのだろう…と不思議に感じる。