『放哉評伝』

放哉評伝 (俳句文庫)
図書館で借りた本。
先日も書いた*1ように、「咳をしてもひとり」などの自由律俳句で有名な尾崎放哉は、明治18年(1885)に鳥取市で生まれた。
その生い立ちから一高、東京帝大と進むエリートコース、在野の保険会社に勤務したサラリーマン時代、日韓併合後の朝鮮から満州へ流れた外地での時代、そして帰国して妻と別れ宗教生活に入っていく晩年まで、豊富な写真資料や膨大な量の書簡を駆使しながらたどることで、筆者の村上護氏は破天荒な放哉という人物の内面を探っている。


放哉という人は、言ってみれば酒によって人生の方向性を随分と狂わされた人だった。
とにかく酒を飲むのが好きで、酔うと大言壮語して周囲の迷惑を顧みず行動する。それで生涯に随分と失敗をしている。普段は寡黙な人だったらしいだけに、余計に酒に飲まれるタイプだったのではなかろうか。
とはいえ口数が少なく求道的な句作に励んだ反面、非常に筆まめな人だったそうで、最晩年などは師と仰いだ荻原井泉水らに半年あまりのうちに400通以上もの手紙を書いていたそうだ。その文面は非常にユーモラスで、乾いた笑いにあふれている。


最晩年、小豆島の庵に入ってからの暮らしぶりは、以下のようなものだったそうだ。

 放哉の徹底生活は、ちょっと付き合い程度で出来るものでなかった。入庵以来、飯をたくことは一度もなく、焼米にしておき、これを豆と共にかじるのである。これが主食で、水と茶をがぶがぶ飲む。ほかは芋をふかして食べたり、梅干、ラッキョがあるだけの食事だ。

こんな生活のうちに持病の肺を悪くして結核になった放哉は、「之でもう外に動かないで死なれる」と詠み、「たのしみの『死』を、自然的に受入れたいと思ふのであります……どうか成功する様にいのつて下さい」と手紙に書いたその入庵から、実に7ヶ月あまりで41歳にして死んでしまうのである。
こういう心境で詠んだ句が、ある種の気迫を持って迫ってこないはずがない。

足のうら洗へば白くなる
迷つて来たまんまの犬で居る
爪切つたゆびが十本ある
墓のうらに廻る
追つかけて追ひ付いた風の中

この「追つかけて追ひ付いた風の中」という句が、私の胸にぐさっときた。何を追いかけ、何に追いついたというのか。考えれば考えるほど深い。しかも軽い。五五五の変形句で、この字数の中にこれだけの世界を作っているのは、これはなかなか意図して出てくる表現ではないと思う。


その辞世は、終わりではなく始まりを予感させる春の情景を詠んだものだった。

春の山のうしろから烟が出だした