『板極道』

板極道 (中公文庫)
独特の版画(本人は「板画」と表記)・画・書などを残した棟方志功の自伝。標題は「ばんごくどう」と読むらしい。古本屋で105円。
現在の青森市に生まれたその生い立ちから、画家を目指して上京し、後に版画に目覚めて帝展に入選するまで、その後の柳宗悦らとの交流や、本格的に仏教に開眼するきっかけとなった河井寛次郎との出会い、戦中の富山県福光町への疎開、そして戦後の活動などについて、独特の言葉遣いで記されている。
ちなみに「志功」という珍しい名前は、「彦(ひこ)」という音を付けようと思ったところ、青森弁で「しこう」となまってそのまま付けられたものだとか。


油絵に目覚めた頃の記述。

 市立青森中学校の図画の先生に小野忠明先生がおられます。(略)
 氏はゴッホを尊敬して新しい絵を描いていました。氏からわたくしは、フランスの作家の情勢をいろいろ教えられました。とくにゴッホの話に夢中になりました。(略)そうして小野氏は、大切にしていましたゴッホの『ひまわり』の原色版を、わたくしにくれました。──この原色版を、カミサマ──ゴッホの面影として大切にしていたのですが、残念千万にも、戦災で無くしたのは、惜しく思っています──。
「ようし、日本のゴッホになる」、「ヨーシ、ゴッホになる」──そのころのわたくしは、油絵ということとゴッホということを、いっしょくたに考えていたようです。
 わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。


同郷の太宰治とのエピソード。

 太宰氏とは同郷でありましたけれども、はじめのころは会ってもことばを交した覚えはありませんでした。一度ぐろりあ・そさえての創刊祝賀会で、自己紹介の時、あまり声がひくかったので、わたくしに聞えませんでしたから、「今の方、もう一度、高くいってください」といいましたが、その、もう一度はいわなかったようでした。その、もの思う節を思わせるようなニヤニヤ感のつよい、青っぽい風貌が、なんとなくわたくしの肌合と合わなかったからでもあったようでした。太宰氏もやはり、わたくしを好かない人間と思ったことでしょう。
 その太宰氏が、わたくしの油絵を、氏の学生時代にすでに認めてくださっていたことを書いた随筆があります。青森市の寺町に豊田という呉服屋があって、その主人が氏の叔父様にあたる人だったので、氏はここへ寄食して旧制の青森中学へ通っていました。氏はこの、ひどく人がよくって、甘やかしてくれた“おどさ(お父さん)”にたのんで、学校の隣にあるアンデレ教会のそのまた隣の花屋に飾ってあったわたくしの油絵を、二円で買うはなしであります。(略)
 いまでいえば青森の高校生でありました氏が、吊鐘マントの下駄ばき姿で絵を買い、「おどさ」に自慢するようすが目に見えるようです。わたくしは今、この氏の気持ちを、有難く、しみじみとしたこころ持ちで感謝しております。太宰氏のやさしい想いの貴さに伏したくなります。

棟方氏の他人評は、ことほどさように心に思ったことを包み隠さず書く風なので、一瞬悪口に思えたりもするのだが、多分うら心がないだけなのだろう。


忘れえぬ人々」と題した章を設けて、いろいろな人との出会いを書いているのだが(半ば自慢話のようにも思える)、その冒頭で書かれている話。

 京都の花見小路に、万亭があります。その前に十二段家という花所帰りの客にお茶漬けをたべさせる、赤塗りの家がありました。ここの主人の西垣氏は、むかし長髯で有名な長岡外史という将軍がありましたが、ちょうどその長岡将軍式な美髯をたくわえたご老人でありました。わたくしとの縁のある西垣光温氏は、そのお髯老人の養子で、根っからの料理人ではありませんが、庖丁を執ってもナカナカいかす腕前をもっていました。(略)

この十二段家というお店は現在も京都にあるのだが、丸太町にあるお店と祇園にあるお店は、全然違う経営母体のようだ。ここで語られているのは祇園にあるお店の話で、お店のホームページにも棟方志功の絵が載っており、お店にも飾られているようだ。丸太町にあるほうには行ったことがあるのだが*1、そことの関係はどうなっているのだろう…?
ともあれ、この西垣氏が関西で最初に棟方志功の作品を広めた人となったようだ。

 西垣氏は、大阪の難波で十二段家という稀覯本専門の古本屋を経営していました。古本屋といっても、一種独特の風格を備えた古本屋でありました。店に古い絵や彫刻をおいて落ちつきを与えていました。(略)とにかく世間にはそうざらにない本を、この店は集めているので有名であったようでした。
 (略)はじめて西垣氏が、わたくしの中野の『蛸共群游襖図』のあった家に来てくれた時でした。
「ナンでもカンでも、あなたの描いたもの、板画のもの、油絵でも全部買いますから、全部、アリッタケ出してください」
というのでした。