『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(その3)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)
橋本治は、三島由紀夫を「他者」を描けない作家だったとする。
「他者」を描けない以上、そこでは「恋愛」も発生しない。恋愛小説の形式をとっていても、実際にそこに投影されているのは、あくまで「自分」なのだ。

『春の雪』を読む二十二歳の私は、ほとんど女である。私の態度は、「恋愛小説だと思って読んでるのに、どうして恋愛にならないのよ。さっさと恋愛すればいいのに、ほんとに焦れったいわね!」と起こっている女のそれと同じである。

こう思うときの橋本氏は、ほとんどオバハンなのだが(笑)、実際三島の作品のなかで恋愛が成就することはない。
なぜ恋愛が成り立たないのか? ひとつには、同性愛的な志向もあるだろう。

 多くの男にとって、性欲とは、「女」の存在によって成り立つものである。だからこそ、多くの男は「女」に対して欲情する。男を欲情させることにおいて、「女」は男の外側にいる他者である。「自分とはなんだ?」と考えて、男は自身をつまずかせる性欲の存在に気づき、それが目の前にいる「女」という他者と大きなかかわりを持っていることにも気づく。…(中略)…だからこそ、自己達成を目指す近代文学の男達の多くは、「女」によって翻弄される。ところが、昭和二十四年に忽然と登場した『仮面の告白』の「私」は、違うのである。彼は、欲情に際して「女」を介在させない。「女」なくしても、男の性欲は成り立ちうるということを提示して、『仮面の告白』は、「女」によって翻弄される男達へ、「自立の道」を暗示したのである。

しかし橋本治によると、三島は「廿代の総決算」として書いた『禁色』によって、完全に「自分の気質=男の同性愛」というテーマを公にし、それ以降これについて作品に書かなくなった。

「もっと書いてしかるべきなのに書かなかった」という点において、三島由紀夫は、「同性愛を書かなかった作家」なのである。彼が「同性愛を知らない作家」であるはずはない。彼は、知って、提出して、そして書かなかったのである。


では同性愛にしろ異性愛にしろ、なぜ三島作品では恋愛が成り立たないのか?

仮面の告白』に登場する主人公の欲望は、「男を愛したい」という欲望や「男に愛されたい」という欲望ではない。それは「暴君の欲望」──「男の上に君臨したい」という欲望であり、「自分を愛そうとする者に死を命じたい」という欲望なのだ。
「自分を愛そうとする者に死を命じる」とは、いかなる種類の欲望なのか? それはすなわち、「自分の恋の不可能」に対する欲望である。なんということだろう、彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ。
 (中略)彼にとって最も重大な禁忌は、もっと身近な彼の内側にある。それゆえに“排除”が起こり、その排除によって快感さえもがもたらされる最大の禁忌は、「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」という、彼自身の内にある禁忌なのである。恋の相手は、男でも女でもいい。タブーとは、「恋によって自分の絶対が脅かされること」──つまり、「恋そのもの」なのである。
 なんという近代的なタブーだろう。自分の絶対を信じる近代的な知性は、その絶対を脅かす者を許さない。…(後略)