『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』

われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る
コンピュータとプロ棋士のどちらが強いのか? …この疑問はかなり前から好事家の間で広く語られていて、中にはヤミでコンピュータと対戦して惨敗してしまう棋士もいたようで、筆者である米長永世棋聖が2005年に将棋連盟会長に就任してすぐ、「プロ棋士はコンピュータとは公式の場で指してはならない。ただし、対局料が一億円以上であれば歓迎する。」というお達しを出したそうだ。
この「一億円の対局料」というのは無理難題をふっかけたということではなく、人間とは全く思考回路の異なるコンピュータと対戦するにはそれなりの準備・研究をせねばならず、そうなると人間相手の対局に影響が出る、または一切休まざるを得なくなる。プロ棋士はトーナメントや大会の賞金で生計を立てており、それらがしばらく途絶えてしまう…という意味において、それでもコンピュータとの対局を行うには、一億円は必要になるだろうということらしい。

もしも、どうしてもコンピュータと対局しなければならないとしたら、どういう条件で、どのように準備をするのか。そう尋ねると羽生は、「もしもコンピュータとどうしても戦わなければならないとすれば、私はまず、人間と闘うすべての棋戦を欠場します。そして、一年かけて、対戦相手であるコンピュータを研究し、対策を立てます。自分なりにやるべきことをやったうえで、対戦したいと思います」という、非常に明快な答えをくれたのです。


しかし2010年、ひょんなことから米長会長自身が最強コンピュータ「ボンクラーズ」と「第一回電王戦」で対局することになる。さすがに一億円の賞金ではなかったようだが、プロの第一線を退いているとはいえかつてトップクラスにいた米長氏とボンクラーズの対戦は、将棋界を越えて広く一般の注目を集めることとなる。

大山康晴は六十九歳で亡くなるまでトップクラスに居続けた。そして阪田三吉は六十九歳で当時のトップと指し分けていた。では現在六十八歳の米長邦雄は、どれくらい戦えるのか。さらに今回は、コンピュータとの真剣勝負という将棋の歴史はじまって以来の試みです。私の思いとしては、阪田、大山という二人の偉大な先人の霊に勇気をもらいながら、その勝負の場において存在感を示すこと、そして完膚なきまでにコンピュータを倒そう。これが今回の戦いにあたっての私の意気込み、想いだったのです。

準備に入った筆者は、自身の衰えを痛感することになる。集中力の持続が若い頃に比べ困難になってきたというのだ。
他方コンピュータは、一秒間に数千、数万手を試行錯誤し、最善と思われる手を即座に打ってくることが可能であり、ちょっと考えるとこれはどう考えても人間側の分が悪いようにも思えてくる。


しかし筆者は、練習試合を重ねる中で、コンピュータなりの思考の特徴をいくつか発見する。たとえばボンクラーズは、飛車や角が敵陣に入った時には必ず成るものと「プログラムされ」ている。非常に稀ではあるけれども、局面においては成らないほうが得な場合もある…ということがプログラムされていないのだ。また同じようにボンクラーズは、入玉(相手の王将が自陣に入ってくること)されると人が変ったように弱くなるという。そういう場合の対処方法が「プログラムされ」ていないのだろう。
筆者は、そうした「プログラム」の隙間を突くことで、勝機を見出せると感じるようになっていく。

ここで一つ、申し上げておきたいことがあります。プロ棋士や将棋記者の中には「人間相手に指す将棋と、コンピュータ相手に指す将棋で違うなんてことがあるのか」と問う人がいます。将棋というのは理詰めの世界であり、最善手を指し続けたほうが勝つのではないのか、という意見です。実際、プロ棋士の中には、「対戦相手を見て、いろいろ手を変えるような姑息な将棋は指したくない」なんていうことをいう人すらいます。
しかし私は、ボンクラーズとの練習大局を繰り返す中で、「そうではない」と考えるようになりました。これは非常に重大なことなのですが、人間と指す将棋とコンピュータと指す将棋はまったく違うと考えるにいたったのです。

確かにこれは、人間対人間の戦いとは根本から発想が違う戦法だ。


こうして筆者は、「後手6二玉」という必勝の初手を編み出す。これは何が画期的なのかというと、古今東西のあらゆる棋譜に即していない手であるということが画期的なのだという。
つまり、その後の展開が全く読めない初手を受けて、コンピュータが混乱を来すことを狙った、奇手中の奇手にして対コンピュータ戦における最大の妙手だ…というのが米長氏の意見だ。


この一手を軸に、前半を有利に展開した筆者だったが、後半のある一手のミスをきっかけにボンクラーズにつけいる隙を与えてしまう。一度隙を突きはじめたコンピュータは圧倒的で、そこからは見る間に逆転され、ついには米長氏の投了で対局は終了する。


一体この戦いの意味は何だったのか? 対局後の記者会見で、筆者はこのように述べた。

正直いってボンクラーズの研究は一日六時間、延べ三〇〇時間くらいになるのですかね。相当な時間を費やしましたけれども、この努力は、人間相手に指す場合にはまったく役に立ちません。これはボンクラーズに勝つための研究をしたのであって、現役に復帰してプロ棋士と戦うとか、自分の将棋をさらに高められたということとはまったく関係ありません。そこは人間相手の研究をする人間と、勝つということだけをやってくるコンピュータとは、多分違うのだろうと思います。

 6ニ玉の将棋は、言うなれば「金に徹する」将棋です。学歴も名前も何もいらない、相手から一円でも金を取る。つまりは「位」だけをほしがる将棋です。
 そうすると相手は困る。学歴もない、本を読んだこともない、知性も何もない。「いったいお前は何なんだ」と問うと、一言「カネだよ」と答える。そうしてじっとお金をため続け、いつかは入玉を目指すという財産本位の将棋です。人間相手には通用しないかもしれない将棋ですが、しかしコンピュータはそんな将棋を知らないし、上手に対応することもできないのです。


本書の最後には、今回の対局を踏まえたプロ棋士やコンピュータ将棋の開発者たちのコメントが載せられていた。
棋士たちが一様に奥歯に物の挟まったようなコメントに終始している(苦笑)のに対し、コンピュータ開発者のほうがむしろ将棋という真剣勝負の世界のロマンに思いを至らせているのが印象的だった。