『1Q84 book1』

1Q84 BOOK 1
近所の図書館で予約していたのが、二百数番の順番待ちを経て手元に届き、そしてようやく読み終えた。あまり世評を聞かずに読みはじめたので、第一感は「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に似ているかな」というものだった。あっちの世界とこっちの世界を一章ごとに行き来する、という点において。
村上春樹の作品には、いわゆる最新テクノロジーがあまり登場しないような印象があるが、ネットと携帯がこれだけ一般化された社会においてどのようにコミュニケーションを描いていくのかと思ったら、なんと舞台を1984年に持ってきた。
しかし正直言って背景に1984年らしさとか必然性があまり感じられなかったので、これはもちろんオーウェルの『1984』に何らかの関連性を持っての舞台設定でありタイトルなのだろう。
ろくでもない三軒茶屋の渋滞、カーステレオから流れる「シンフォニエッタ」と「ビリー・ジーン」、首都高3号線のわけのわからない非常階段、しみったれた蜘蛛の巣、馬鹿げたベランダのゴムの木…。舞台装置が揃いすぎた感もある冒頭のシーンで、主人公の一人・青豆は思う。「私は移動する。ゆえに私はある。」…移動するのは物理的な距離か、精神的な道のりか?

青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」
「もしそうだとしたら、人生はけっこう薄暗い」
「かもね」

世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ。

未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。

脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。


この作品の重要なモチーフの一つ、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」という曲を聞いてみたが、想像していたよりも明るい映画音楽のような、レトロSFあるいはスチームパンクのような曲で意外だった。