『浮世絵 明治の競馬』

浮世絵 明治の競馬 (ショトル・ミュージアム)
今年は日本における「近代競馬150周年」にあたるそうだが、近代競馬とはいったい何を指していて、どこから数えて150周年なのかよく分からなかったので、何冊かの本を図書館から借りてきて自分で調べてみることにした。まずはこの本。


結論から言うと、いまから150年前の文久二年(1862)に横浜の外国人居留地において、開催番組(プログラム)が定められたレースが欧米居留人らによって行われたのが、記録に残る本邦での西洋式競馬の事始めなのだという。
当時の浮世絵や外国紙の挿絵などを見ると、ちょんまげ姿の役人(武士)たちも招待されてレースに参加したりしているのだが、この年は日本史で有名な生麦事件が起きた年でもある。まさにあの事件で薩摩藩士に斬りつけられた西洋人のうち1名は、居留地競馬の立ち上げにも関わった人物で、九死に一生を得て後も運営に携わっていたという。
その後、西洋人への風当たりが強くなったことから、街道筋から遠い現在の横浜市中区にある根岸へ競馬場が移された*1というが、そこまでして居留外国人が競馬にこだわったのは、何もギャンブルがやりたかったわけではない。この頃の競馬はオーナーが自ら馬に乗って速さを競うのが主流だったため、いわば居留地に閉じ込められた彼らにとっての恰好の余暇のスポーツとして希求されていたわけだ。
当初は日本在来馬や中国産馬が出走していたが、やがて居留外国人や軍隊が本国から持ち込んだ西洋種も出走するようになり、また在来種との雑種も進んだようだ。


明治の競馬を描いた浮世絵には、レース中に落馬している場面が多く描かれている。これは、一つには日本在来種が「馬の姿をした野獣」と言われたように性格がきつくて言うことをきかなかったためであり、招魂社(現在の靖国神社)や不忍池などに作られたコースが全体的に小さくてカーブが急だったためでもあり、また日本が文明開化(=欧米化)を急ぐ一つの象徴とされた競馬行事が半ば揶揄されて描かれているためでもある。
それほどに当時の日本政府は欧化政策の象徴として、あの鹿鳴館と同じくらいに競馬開催を重視していたそうで、不平等条約改正を急ぐ井上馨外相の旗振りのもと、明治天皇以下政府の高官たちが何度も臨場していたという。


その後日本は日清・日露戦争を経て欧米列強と見かけ上は肩を並べるようになったが、当時の戦場において必要不可欠だった馬の能力の低さを思い知った軍部および政府は、日本馬改良を進めるために競馬を振興し馬券発売を黙許(刑法で禁じられた賭博行為を黙認)することになった。
このため各地の競馬会は馬券発売をはじめたが、いずれも過熱の様相を呈し、また競馬関係者による不正行為も相次いだため、さまざまな政令が発せられ対策が講じられたが*2効果は見られず、ついに馬券は禁止されることになった。
馬券は禁止されても馬の改良事業は国防のために必要とされたので、既存の競馬会は11に統廃合され*3陸軍省の管轄のもと賞金や必要経費の支給を受けて競馬は続行された。これらがやがて日本競馬会を経て、現在の日本中央競馬会につながっているというわけである。


…以上が、駆け足で振り返った日本の近代競馬の150年である。

*1:現在は根岸競馬記念公苑となって残っている。

*2:馬券の配当率(オッズ)の場内表示や下見所(パドック)の設置などはこの時に義務付けられ、それが現代に受け継がれている。

*3:札幌・函館・新潟・松戸・目黒・根岸・藤枝・京都・鳴尾・小倉・宮崎