『天の釘 現代パチンコをつくった男正村竹一』

天の釘―現代パチンコをつくった男正村竹一
パチンコについての勉強・第二弾。
前回『パチンコの経済学』を読んだ際、昭和25年の誕生から現在に至るまで、全てのパチンコ盤の基礎となっている「正村ゲージ」を作った正村竹一という人物に興味を覚えた…というのを書いたが*1、この本はまさにその正村氏の評伝である。
「いかにコンピュータ化されデジタル化された現在のパチンコであっても、釘の配列の基本はあくまでも正村ゲージのそれであり、根本的には変わっていない」というのがすごい。


岐阜の山奥で生まれ、幼くして口減らしのため奉公に出された正村は、造り酒屋の店主にして生涯の師として仰ぐ高木重太郎と出会う。何事も努力、何事も感謝。川原から砂を持ってきて字を書いて文字を覚えたという苦労人の高木は、お札にはアイロンをかけ、奉公人には白米を好きなだけ食べさせ、今でいう社宅も完備するなど当時としては先進的な経営を実践していた。
正村はこうした経営哲学を体得し、さらに自動瓶洗浄機を発明するなど、早くも器用さの片鱗を見せていた。
やがて名古屋に出てガラス商を営むのだが、副業のひとつとして始めたパチンコ店が思いのほか繁盛し、次第にこちらが本業となっていく。

「儲けれんというのは怠けとる証拠。儲からん儲からんと言っとる暇があったら、働きゃあええんだ、簡単なことだわ。それと使わんことだ 」

戦後の焼け野原から育っていった企業家たちの立志伝を読むにつけ、人の倍努力すればそれだけ報われる…という「実業の充実感」が感じられた時代だったのだなあ…と、半ばうらやましくも思えたり。
戦中の熱田大空襲で瀕死の重傷を負った正村だったが、怪我から回復してからは文字通り生き返ったようにパチンコに打ち込んだ。もともと名古屋近辺では、ティーチェスト(輸出用の紅茶箱)用のベニヤ板は戦前から生産高が日本一だったし、鋼球は機械類の生産に使用していた軸受部分のボールベアリングを使用し、ガラス板はガラス商をやっていた正村には調達などお手の物だった。
ガラス、ベニヤ板、鋼球…名古屋がパチンコ発祥の地になる条件は揃っていたが、それらが正村の工夫した「正村ゲージ」に結晶したというわけだ。


さらに正村に先見の明があったとすれば、この「正村ゲージ」で特許をとったりせず、他社が真似をするに任せたことだろう。

「真似させときゃあええがや、真似してもらえるくらいええ機械ということだがわ、それでいいがや」

これにより、大衆が夢中になるパチンコ台が、名古屋から急速に全国へ広まっていったわけだ。もし特許をとっていたら、瞬間的には儲かっていたかもしれないが、業界全体の繁栄はなかったかもしれない。


機械だけでなく、正村はいまで言うマーケッティングのノウハウも生み出し、新規開店するホールにそれを惜しみなく伝授していた。

竹一は、正村ゲージというパチンコ機械の革命を成し遂げただけでなく、パチンコホールの経営ノウハウをも編み出していた。…竹一は半世紀も前にデータの集計がホール経営にとっていかに重要であるかを知り、実践していた。

人気の正村ゲージを打ちに来る客足に満足することなく、どのホールにも玉の統計簿を付けさせ、客の入り、売上、自転車に書かれた住所まで調べさせる。いわばハードからソフトまで、パッケージで全国に広めていったのだ。


また、戦後急速にパチンコが栄えたのは、娯楽に飢えていた人々が気軽に楽しめたこともさることながら、景品として出されたタバコが何より喜ばれたから、というのも興味深かった。
つまり「愛煙家のための娯楽」だったわけで、昭和28年の専売公社資料によると全国のパチンコ店で消費されるタバコの量は1日で1億円、1年で360億円、これは専売公社販売量の5分の1にのぼったそうだ。
パチンコとタバコは不可分のものとして繁栄してきたわけだが、それがのちに「三店方式」による現金引換えが主流になり、現在の非常にグレーな状況へとつながっていくわけか。