『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』

源平合戦の虚像を剥ぐ (講談社選書メチエ)
昔の人の暮らしについて、我々は知っているようで思った以上に何も知らないことが多い。
いわゆる源氏と平家の合戦についても、なんとなく絵巻物とか軍記物なんかのイメージから、甲冑を着た武士たちが馬にまたがって弓を射て…というように想像するのだが、本当はどんな戦い方をしていたのか? それは古代の戦争とはどこが変化したのか、そして近世の戦闘方法にどう受け継がれていくのか…。考えれば考えるほど気になってくる。


大体、武士が乗っていた馬にしてからが、現存する木曽馬あたりを見れば分かるように、日本の在来馬はポニーくらいの背丈しかなかったわけで、当時の日本人の平均身長も今よりだいぶ低かっただろうから、西洋の騎士に比べれば小人の争いといった趣だったのだろう。
本書によれば、甲冑をつけた大人が騎乗した状態では、襲歩(ギャロップ、いわゆる競馬の全速力)はとてもできたものではなく、駈歩(キャンター)ですらすぐにやめようとする有様だったという。全速力なんて数十秒間くらいしか続かなかったらしいから、大分イメージが変わってくる。
実際この時代頃から、「馬は射ない」というそれまでの暗黙のルールも崩れ、まずは騎馬武者を地面に引きずり下ろし、白兵戦で組み伏せて首を斬る…という戦い方が一般的になってきたようだ。


それなのに何故「弓馬の道」が称揚されたのか? 日本史の教科書で学ぶ「犬追物」とか「笠懸」なんかを鎌倉幕府が奨励したのはどうしてなのか?
本書によればそれこそが、相次ぐ内乱で本来の武士階級以外から戦闘要員が流入してきたことにより、馬を操り弓を射る武士というアイデンティティが崩れてきた、まさにその裏返しの証拠であるという。つまり源頼朝は武士というクラスをもう一度編成しなおすことにより、朝廷に勝る権力を手に入れることができた、それこそが源平合戦の政治的歴史的意義だった…というわけだ。
源義経をかくまった懲罰として語られている奥州藤原氏討伐にしても、四国や九州に至るまで全国津々浦々の御家人という御家人を招集していることなどから、「鎌倉殿」の名の下に軍制を整備しなおすことで、全ての武士を傘下におさめることこそが真の目的だった、という読み解きも面白いと思った。
確かに、源平合戦の最初の段階では源氏こそが反乱軍で平家が官軍だったわけで、しかも頼朝が伊豆で挙兵した時点では彼が源氏の棟梁であるという認識すら共有されていなかったというから(木曽義仲のように、みんなそれぞれ勝手に源氏のリーダーを主張していた)、最後の最後でもう一度部下に自分の正当性を宣言する必要があったというわけだ。


ちなみに頼朝が自らの貴種性を主張する際に持ち出したのは、彼から見て5代前の先祖で、清和天皇から5代目の子孫である源頼義だった。頼義は清和源氏の東国支配の礎を築いた存在で、後に朝廷から鎮守府将軍に任ぜられ、前九年の役で東北の雄・安倍氏を討っている。
頼朝にとっての奥州征伐はこの前九年の役の再現であり、なおかつ頼義以来実質的に鎮守府将軍の座を引き継いできた奥州藤原氏を倒すために、それ以上の地位…つまり征夷大将軍となることが必須だった、と筆者は読み解く。
この辺り目からウロコで、読んでいて非常に興奮させられた。