『優駿(下)』

競馬漬け第14弾。

オラシオンか……。あいつが生まれてから、なんだか何もかもがあっちこっちへ流れ始めたような気がするよ」
 多田はよく冷えたコーラを飲み干し、屑籠に投げ入れると、そう言った。
「何もかもって?」
 佐木は、足元に散らばっている外れ馬券に視線をやったまま訊いた。
「ひとことじゃ言えないね。あいつに関わった人間たちの中で、それまで止まってい動かなかった何物かだ。そういう言い方しか、俺には出来ん」

さまざまな登場人物たちの運命を背負った馬オラシオンは、デビューから連勝を重ねて皐月賞にも勝ち、そしていよいよ日本ダービーの日を迎える。


馬主の和具は裸一貫で築き上げた会社の経営権を手放し、隠し子を失う。その秘書の多田は和具を裏切ったことにより得たはずの地位が幻だったと気付かされる。主戦騎手の奈良は嫉妬に駆られて与えた嘘のアドバイスにより同僚騎手の命を奪ってしまう。生産者の息子渡海博正はよき指導者であり目標でもあった父親に先立たれる。
このようにして登場人物たちは一様に、それぞれの人生における大切な何かを失ってしまう。まるでそれが、サラブレッドが一生に一度だけ出走のチャンスを得る日本ダービー、その晴れ舞台に関わるための代償であったかのように。そういえばオラシオンも生まれた翌年に母馬を亡くしている。


自分にとって大切なものを失うことで、初めて栄光を掴み取る権利が与えられる──これはまさに競馬の、ギャンブルの、そしてもしかしたら人生の根源に横たわる、一つのテーゼだ。だとしたら、我々はそれにどう立ち向かうべきなのだろうか?


作者は、運命の日本ダービー当日が終わったところで静かに筆を置いている。
オラシオンは見事二冠を達成できたのか? 彼に関わった人間で最後に勝者となったのは誰だったのか? 作者は何故その人物を勝者としたのか? それはぜひ直接本書で確認してもらいたい。

優駿〈下〉 (新潮文庫)

優駿〈下〉 (新潮文庫)