『敗れざる者たち』

敗れざる者たち (文春文庫)
競馬漬け第5弾。大学生の頃、沢木耕太郎の一連のノンフィクションにハマったことがあって、そのとき以来の再読。
本書は沢木耕太郎のライターとして最初期のルポルタージュ作品集。ボクシングや野球、マラソンといったさまざまなスポーツにおいて、一旦は頂点を極めた(または極めかけた)選手たちのその後を追っている。

 ここに収められた六篇の作品は、「勝負の世界に何かを賭け、喪っていった者たち」という主題に沿い五年間にわたって書きつづけられてきたものだ。それぞれが独立し完結してはいるが、その意味ではひとつのまとまった長編と考えられなくもない。いや、むしろそう読まれることを望んでいるといった方が正直だろう。
(「あとがき」より)

その六篇のうちのひとつ、最も古い昭和47年初出の作品が「イシノヒカル、おまえは走った!」という競馬のルポ。


1972年の皐月賞で直線すばらしい脚で追い込み2着となり、続く日本ダービーでも有力視された関東馬イシノヒカル。筆者は同馬を管理する浅野厩舎にダービーの数日前から泊まりこみ、調教師・厩務員・騎手・新聞記者といった関係者の人間模様や、レース直前に飛び交う怪情報などを克明に記録することで、大一番を前にして徐々に高まっていく緊張感をうまく伝えている。
競馬のクラシックレースは、一頭の馬が生涯でただ一度しか挑戦できない。その一回限りのチャンスというところにこそ、夢があり神秘性が生じてくる。

 日本ダービーが、天皇賞にも有馬記念にもない熱気を生む理由のひとつは、“たった一度”を持ちうるものへの人々の羨望が、乱反射するからにちがいない。

この本に収められた他の作品の主人公たちと同じく、イシノヒカルとその関係者たちは、日本ダービーという生涯でただ一度の最高の舞台に挑戦することになる。
筆者は取材を続けるうち、レース後半に先行馬に追いつき抜き去る追い込み馬のイシノヒカルが、もしダービーの栄光をつかんでしまったなら、その次に追いかけるべきものは何なのか? …という疑問を持つ。栄光の後に待つものは何なのか?
…だがイシノヒカルは、結局直線で前を行く馬を捕えきれず、6着に敗れる。

 厩舎に戻ったイシノヒカルは、お湯でサッパリと躰を洗われた。まだ息遣いの荒い彼は、時おり無念そうに脚で宙を蹴る。
 イシノヒカル。結局おまえはこれからも“追いつく”ために走らなくてはなるまい。これからずっと。

競馬にロマンを感じる人は、このように(実際には何も考えていないであろう)競走馬たちに、結局のところ自分や社会や歴史といった、人間界の何物かを投影してレースを見ている。またそれが可能であるから、競馬にはギャンブルという即物的な面に加えて、立体的な面白さが出てくるのだろう。


ところで我々読者はルポを後から読む以上、それぞれの選手たちが「結局は敗れた」という結果を知っている。仮に読み始めたときに知っていなかったとしても、結果が出たあとでの追体験であることに違いはない。
この、既知の事実をどう読ませるかという工夫において、駆け出しのライターだった沢木氏の苦労が六篇の作品いずれからもうかがえて、それはそれで興味深かった。