『黒人ダービー騎手の栄光』

黒人ダービー騎手の栄光 激動の20世紀を生き抜いた伝説の名ジョッキー
「事実は小説よりも奇なり」という使い古された言葉があるが、この本の主人公ジミー・ウィンクフィールドの生涯は、まさにそうとしか言いようが無い起伏に富んだものだ。彼は19世紀末から20世紀半ばにかけては騎手として、その後はサラブレッドの調教に携わるホースマンとして活躍し、2004年にはアメリカの国立競馬博物館栄誉殿堂(National Museum of Racing and Hall of Fame)にその名を刻まれた人物。
ジミーの経歴を輝かしくまた特異なものにしているのは、彼がアメリカ競馬最大のレースであるケンタッキーダービーで勝った最後の黒人騎手であり、かつ同レースを連勝した史上たった4人の騎手の1人であることもさることながら、アメリカはケンタッキー州を振り出しに、帝政時代のロシア、ポーランドオーストリア、そして永眠の地となったフランスと、大西洋を股にかけて活躍をしたその経歴にある。
しかしながら結果としては華々しいこうしたホースマンとしての国際的な活動は、たとえば現代のプロスポーツ選手が世界を飛び回って活躍するのとは意味合いが違う。ジミー自身が活躍の場を求めて移動したのではなく、時代状況のなかで仕方なく次の国へ移っていったのだ。


ジミーが生まれた19世紀末のアメリカは、南北戦争の傷跡もまだ生々しい時期で、黒人奴隷の解放は宣言されたものの、むしろ隔離政策が整備されるなど、黒人差別は根強く残っていた。だが競馬場は黒人たちの権利が、かろうじて保持されていたという。当時語られたエピソードとして、白人の馬主に黒人の厩務員が「競馬場でだけは鞭で叩かないでくれ」と主張するセリフが引用されていた。

「競馬場じゃ人はみな平等なんでして。つまりね、人が平等になる場所が二つある──一つは競馬場(on the turf)で、もう一つはほとけが眠る土の下(under the turf)。ですからね、場所柄をわきまえりゃ、ここでおいらを殴るわけにゃいかねえんですよ。」

この本を読んで初めて知ったのだが、実はアメリカ競馬の草創期には多くの黒人奴隷騎手が活躍しており、ケンタッキーダービーもその歴史をさかのぼれば1875年の第1回のレースでは出走15名の騎手のうち13名が黒人で、最初の28回のレースのうち15回はこうした奴隷騎手が優勝していたのだそうだ。
ともあれ、もちろん奴隷騎手などいなくなった頃にデビューしたジミーは、レースで天性の才能を発揮して有力馬主の信頼を勝ち取り、実力馬への騎乗依頼が舞い込むようになり、1901年と翌1902年のケンタッキーダービーで見事に連勝を飾る。このあたりが彼のアメリカでの絶頂期。
しかしその陰で、アメリカ競馬に押し寄せたアイルランド、イタリア、ドイツ、スペイン、オランダ、イギリスといったヨーロッパからの白人移民の波が、黒人騎手を競馬場から追放する運動を始めていた。そうして黒人の第一線の騎手たちは、次々と没落し、ある者はギャンブルにおぼれ、ある者は競馬場を追われ、悲惨な末路を迎えていった。

 そうなった理由については諸説あった。急速に工業化が進んだ北部への移住によって、馬と習得の難しい技術にひたすら打ち込む熱意のある若者たちの予備軍が減ったとか。知性の無さと持ち前のいい加減さで馬主の信頼を失ったとか。どんどん高額になってきた賞金に惹かれて、今や儲かる仕事になった騎手稼業に参入してくる白人の若者たちが増えているせいだとか。だが、黒人騎手の成功に敵意を抱き、かれらを痛めつけようとする白人騎手たちや、もともとバスとか投票所を黒人と共用するのを嫌っていて、黒人を競馬場から追放しようとほぞを固めた馬主たちを槍玉に挙げる者はほとんどいなかった。

これに追われるように、ジミーは新天地を求めロシアに渡る。


ロシアで運良く競馬への熱意と財力を兼ね備えたパトロンを見つけたジミーは、その馬主イワン・ラザレフ将軍とのコンビでロシア帝国ポーランドの競馬界を文字通り席捲した。ロシアでは黒人差別は見当たらず、あるのは馬にかけるホースマンたちの情熱だけだった。そうして与えられた愛称が「黒いマエストロ」だった。

 この呼び名が純然たる愛称として与えられたものだとジミーが知ったのは、モスクワでのことだった。あのアイザック・マーフィーが二〇年前、イギリスの偉大な白人騎手フレッド・アーチャーのまがいものを暗示する「カラード・アーチャー」とあだ名されたときのような意地の悪い賛辞とはわけがちがう。ロシア帝国にはあまりにも多種多様な民族がいて、人種を黒か白かという観点で見ることなどどだい無理だった。

しかしロシア社交界の花形としてもてはやされた夢のような日々も、日露戦争の勃発やロシア革命派の暗躍によって帝国内の競馬が衰退していくにつれて翳りを帯びていく。
そして決定的な事件が彼を襲う。オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド大公(この人もオーストリア競馬の有力馬主の一人だった)がサラエボで暗殺され(つまり世界史の授業で習ったサラエボ事件)、第一次世界大戦が勃発、さらにはロシア革命によって帝国そのものが崩壊してしまった。
ジミーは帝国競馬の優駿たちを救い出すために、何人かのホースマンたちとともに選りすぐりのサラブレッド260頭を連れて、黒海沿岸のオデッサからウクライナルーマニアを経てワルシャワまで、約2000キロ3ヶ月間に及ぶ逃避行を決行したのだ。本来が短距離走のために品種改良を重ねられたサラブレッドにとって、これは想像以上の苦行だったことだろう。それでもワルシャワにたどり着いたとき、出発時より10頭しか減っていなかったというから驚きだ。


この後ジミーはつてを頼ってフランスに赴いた。シーズンごとに馬が競馬場を大移動する「サーキット方式」のアメリカやロシアなどの競馬と違って、フランスではメゾンラフィットに厩舎や馬が集まっていて、レースが開催される競馬場にそのつど馬が移動して帰ってくる。ジミーは最初これに驚いたというが、やがてメゾンラフィットに住居を設け、最初は騎手として、後には厩舎を構えて調教師として活躍したそうだ。
こうしてようやく平安の地を見つけたように思えたジミーを、またもや衝撃が襲う。第二次大戦の開戦とともにフランスに侵攻してきた、ナチスドイツ軍である。

 数日のうちにドイツ兵が大挙してメゾンラフィットに押し寄せて、強固な機銃陣地を築き、毛布や家畜など欲しいものを手当たり次第に徴発して占領態勢を固めた。かれらはそこが馬の町だということをよく知っていた。ドイツ軍将校が大勢乗り込んだトラックが何台も家々に乗りつけ、フランスに冠たる優良馬を片端から曳いて町を出ていった。ジミーはトラックが家にやってきたとき、かれらが町中のサラブレッド全頭について資料を持っているのに驚かされた。高価な種牡馬や最良の繁殖牝馬がどれとどれかも、馬主の名前も知り尽くしていた。
(略)
 ジミーは自分がオーストリア・ホテルに逗留し、「黒いマエストロ」として名を揚げつつあったちょうどその頃、かれらの指導者アドルフ・ヒトラーもウィーンにいたことを知らなかった。当時、ヒトラーは食うにも事欠く貧乏絵描きで、木賃宿をねぐらに観光客目当てに水彩の風景画を描いていた。その男が今や西欧を支配していた。


…といった感じで、一人の騎手の生涯というよりも、19世紀末から20世紀半ばまでの世界情勢に翻弄された数奇な男の生涯といったほうが正確な、変転に次ぐ変転の物語となっている。
その中でとくにジミーが翻弄されているのは、黒人差別だ。「自由の国」アメリカで生まれ、競争社会である競馬サークルに身を置きながら、実は旧世界ヨーロッパよりもアメリカでのほうが差別が激しかったというのは、皮肉だと思った。
アメリカ競馬の初期についてあまり知らなかったので、当時の状況が活き活きと描写された本書はとても参考になった。ただ一つ難をつけるとしたら、訳者の方が競馬に詳しくなかったようで、競馬ファンから見るとところどころ文章表現がぎこちない箇所があったのが残念だった。