『尾崎翠集成(上)』

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)
いよいよ尾崎翠を読んでみよう…と図書館から借りてきた本。
東京から関西へ移動する新幹線の車中、「第七官界彷徨」などの小説作品を収めた上巻をざっと読んだ。


くだんの「第七官界彷徨」を読んだ感想としては、発表当時は衝撃的だったと思うが、いま読むとそれほどでもないのかな、といった感じ。
しかし逆に、これがつい最近の作品だと言われても違和感がないくらい今様の心理小説の体裁をしているのが、実は凄いことなのかもしれない。


「『第七官界彷徨』の構図その他」という自著解説が付いていて、これが非常に興味深かった。

 登場人物達の性格の色分けは問題とせず、むしろ彼等を一脈相通じた性情や性癖で包んでしまうことを望みました。彼等は結局性格に於ける同族者で、被害妄想に陥り易くて、いたって押しの強くない人物どもです。こんな心理は現代の人間たちが共通して抱いている一種の時代心理とも呼び得るでしょう。しかし私はこの作に於てそんな時代心理を正面から取扱う意図を持ちませんでした。私はただ、正常心理を取扱った文学にはもはや読者として飽きていますので、非正常心理の世界に踏み入ってみたいと希望しただけです。そのために、彼自らもどうかすると分裂心理病院に入院する資格を持ちそうな心理医者を登場させたり、特殊な詩境をたずね廻っている娘や、植物の恋情研究に執心している肥料学生や、ピアノの音程のために憂愁に陥る音楽学生を登場させ、そして彼等の住む世界をなるたけ彼等に適した世界とすることを願いました。

作者の尾崎翠自身が上のように述べているとおり、時代の空気を斟酌した作品ではなくて、あくまで個人の心理を基本に作り上げた作品世界であるために、どの時代にも色褪せない普遍性を持っているのだと思う。
それにしても自分の前の時代の自然主義小説を指して(だと思うが)、「正常心理を取扱った文学にはもはや読者として飽きていますので」と言い切るこの芯の強さ! 翠はこの「第七官界彷徨」を発表したとき30代半ばだったが、既にして確固たる作品世界を築き上げていたのだろう。
この選集に収められている、林芙美子ら当時売り出し中の女流作家・詩人らとともに行った対談録でも、他の参加者に比べてズバズバと言い切る語調が小気味よい。シュールレアリスム文学に関心を持っていたことを窺わせる発言があるが、それもむべなるかなといったところ。


しかし前にも書いたように、翠は「第七官界彷徨」で世に認められた特異な文才を、大きく花開かせる直前で薬物中毒に陥り、故郷の鳥取に引っ込んで、そして二度と小説を書くことはないまま75歳で生涯を終えた。非常にもったいないことだと思う。
翠がその生涯で本当に思う存分に筆を揮っていたとしたら、後に出てきた村上春樹あたりもその亜流に見えたかもしれない…というのは言い過ぎだろうか?