『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)
三島漬け第13弾。あと『豊饒の海』4部作を読んで、三島漬けはひとまず終了にしたいと思う。そろそろ他の本が読みたくなってきた。
本書には三島由紀夫の書いた戯曲のうち、最高傑作といわれている「サド侯爵夫人」と、作者自身がこれと対になるものと述べている「わが友ヒットラー」を収録。さらに巻末に、三島自身による解題が7編収められいるのがありがたい。
戯曲、つまりは芝居の台本だけあって、小説に見られるような流麗な文体はそのまま残しつつも、役者が声に出したときに音だけでは意味がわかりにくい漢語やまぎらわしい語が全く使われていないのには、さすがと思った。


「サド侯爵夫人」は、三島由紀夫澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』という文章を読んで、「サド公爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫尽していながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまうのか」という点に興味を覚えて書き上げた戯曲。
登場人物はサド侯爵夫人やその母、妹をはじめ、すべて女性のみで、サド侯爵は会話には上るが姿を一切現さない。つまり「サド侯爵が出てこないサド侯爵の話」ということで、演劇的な技巧としては見事だと思った。
そうして描かれているのは、三島が何度も書いている「仮面と、恐ろしい本性」の主題。終盤に提示される価値基準のどんでん返しには、軽いめまいすら覚えた。


「わが友ヒットラー」は、ヒトラーが片腕レームらを粛清した世に言う「レーム事件」を題材に、極右と極左を切り捨て全体主義へ突き進んで行くヒトラーの不気味な姿を描いている。
「サド侯爵夫人」と対になると言うだけあって、この戯曲にはヒトラーをはじめ男しか出てこない。


女しか出てこない芝居と、男しか出てこない芝居。
いまでこそ「そんなの別に普通だろ」と思うのだが、巻末の解題で三島が述懐しているとおり、これらの戯曲が発表された当時(昭和40年代初頭)の日本演劇界は、西洋から輸入した芝居と日本古来の芝居が相克する、まだまだ黎明期にあった。

…しかし女ばかりの舞台では、声質が単調になりがちで、(これは宝塚の舞台を、考えればすぐわかる)、殊にセリフ本位の芝居の場合は、それが心配になり、構想中、老貴婦人の役を出して、女形で、やらせる、とも考えたが新劇における女形演技の無伝統を思うと、それも怖くなってやめてしまい、結局女だけの登場人物で通すことにした。かくて私は、NLTの全男優の怨嗟の的になったのである。
(昭和40年11月初演時の劇団NLTプログラムより)


また三島は、この「対になる作品を作る」という性向について、こんな興味深いことを書いている。

『サド侯爵夫人』を書いた時から、私はこれと対をなす作品を書こうと思っていた。そういうことをするのは、四六駢儷体を愛する私のシンメトリーの趣味であって、大して深い意味はない。

「四六駢儷体を愛する」というのは母方に漢文学者の血筋を持つ三島らしい修辞だが、ようするに「完璧に作り上げられた人工的世界を愛する」ということだと思う。
三島由紀夫の作品世界が箱庭的に見えるのには、ひとつにはこんな作者の性癖が理由なのだと思った。