『行きつけの店』

行きつけの店 (新潮文庫)
「ここと決めたら店を変えない。だから多くの店を知ることはないが、どこの店とも親類づきあいのようになってしまう。」…という故・山口瞳氏が通いつめた、数々の「行きつけの店」にまつわる人間関係をつづったエッセイ集。
そう、タイトルから連想されるようないわゆる名店ガイドではなく、あくまでそこに醸成された人間関係が主眼。そのため、ほとんど料理に触れられない回もある。金沢のバー「倫敦屋」を紹介した章では、「倫敦屋のジントニック」というタイトルをつけておきながら、「倫敦屋のジントニックを私は飲んだことがない」などと書いている。
私が15日の日記に書いた「山ふく」や「祇園サンボア」を知ったのは、この本でのこと。


行きつけの店に通う山口瞳…などというと、「作家が通ぶって…」と思うかもしれないが、そうではないと思う。あちこちの店で自分の美意識にかなった部分を探し出す氏だが、それらはすべて、「人の気働き」に由来するものだということがわかる。
だから、巻末に付けられた「時の移ろい」という章で、氏は多くの店が様変わりし、多くの人々が他界されてしまったことをあえて付記しているのだ。気働きをしていた人が、すでにこの世にいないという切なさを書かずにはいられなかったのだと思う。


料理・音楽・物語・映画…そのほかいろいろな嗜好品は、そのもの自体が絶対的な価値を持っているのではない。一緒に味わった人が誰だったか、そのときの自分の気分はどうだったか、などといった諸条件で変わる相対的なものだと思う。
だから2回目、3回目も同じく愉しめて、それがやがて「行きつけ」になるというのは、貴重なことなのだ。