「モンドヴィーノ」

モンドヴィーノ [DVD]
フランス、イタリア、オーストラリア、アメリカ、南米…。世界各地でブドウが栽培されるようになり、消費者の嗜好も大きく変わった現代では、ワイン作りそのものが大きな変革の時を迎えている。それは「ワインのグローバル化」とも言える大きなうねりである。
本作はワイナリーの資本集約化、ワイン評論家の台頭による味の画一化などを追いながら、ワインを取り巻く環境の変化とそれに抗する“古き良き時代のワインの作り手”たちの声を丹念に拾っていった、ドキュメンタリーの労作。
といってもそんなに堅苦しい映画ではなく、ワインにそんなに通じていない私でも興味深く見られた。9世紀から続くイタリアの名家で現在もワイナリーを経営している貴族から、世界中に「信者」を集め多大な影響力を誇る一方で「悪魔に魂を売った」と後ろ指を差されるワイン評論家、意固地にテロワール(地味)を守り続ける自称「テロワリスト」まで、ワイン業界で生活している人物たちが、いずれも一癖も二癖もある個性的な人間であるからだろう。


そしてこの問題(グローバル化にまつわるエトセトラ)は、何もワインだけの話ではなく、全ての農作物、食物、地場産業、その他に当てはまることなのだ。以前このブログでも「ワインと米」というエントリで書いたように。


イタリア、サルデーニャ島で小さなワイナリーを営む老人の独り語りが、映画の冒頭と幕切れに流れる。どちらも哲学的な、そしてこのドキュメンタリー映画の内容を象徴する、深い言葉だ。

今の人は怠け者になったし、消費生活というものに呑み込まれてしまった。自分のアイデンティティを見失ってしまい、自分の故郷がどこか、どこへ行くのかもわからず傷つけあっている。動物と同じレベルに落ちてしまった。
動物は少なくとも自分の食べる物を選ぶがね。人間は威厳を失ったよ。

金持ちか貧乏かは問題じゃない。なぜなら──我々には胸を張って生きてきた誇りがある。千年の歴史がある。サルデーニャは古くから栄えた文化がある。我々は誇りを持って生きてきたのになぜ今誇りが持てなくなった?
なぜなら現代の人間は進歩と言う幽霊に惑わされているからだ。幽霊から人間を守らなければ。自然を守らなければ。そして他人を苦しめないようにしなければ。
私達はこの土地で静かに暮らしてきた。島にはまだ十分に土地はあるよ。

『孤独のグルメ』

孤独のグルメ (扶桑社文庫)
近所の本屋のオススメコーナーにあったのを手にとってみて、面白くてそのまま買って帰って一気に読んだ。
女優の卵とパリでデートしたり、極度の大阪嫌いだったり、経歴が一切不明の謎の輸入雑貨商の中年男性が主人公の、グルメマンガ。しかしグルメと言っても完全にB級のそれで、しかも店に入るのは必ず一人、酒は一切飲まない。昼飯時に「それにしてもお腹が空いた…」とかぼやきながら商店街を行きつ戻りつし何を食うかひたすら迷う、そしてようやく入った店で思わぬ食事との出会いをする。ただそれだけのマンガ。
しかしその食いっぷりが見事なのである。明らかに注文しすぎなのだが、とにかく全部を平らげて、店を出るときに「さすがに食いすぎた」と後悔しながら煙草に火をつける。なんとも男らしいではないか。くわえ煙草もしくは爪楊枝でのれんを払い上げて店を出てくるのが、「お一人様」本来のあるべき姿なのだと、このマンガを読んでいると気付かされる。


それとこのマンガは、毎回読みきり形式で、ある一つの町の一つの飲食店を舞台にしているのだが、各回で取り上げたお店や料理には実在のモデルがあるようで、事実私もこのマンガで取り上げられたお店のいくつかには、足を運んだことがある。
大阪のたこ焼き屋、これは中津にある屋台のたこ焼き屋で、まさにこのマンガの雰囲気そのもの、隣に座った見知らぬ者同士がいつの間にか仲良くなる不思議な店だった。あと朝から酔客が集う赤羽の居酒屋は、かつて私が通った王子の喫茶店を思い出させた。赤羽も王子も工場地帯でタクシー会社も多く、夜勤明けの労働者が多いから朝から酒を飲んでいる人が多いのだろう。


このマンガを読んで、「グルメ」とは巷で人気の店に行って自慢の料理を食す人のことではなく、自らの食事にドラマを作り上げることができる人のことを言うのだな、と思った。