『正岡子規』

正岡子規
ドナルド・キーン氏が日本に帰化してから最初の著作ということになるのだろうか。正岡子規の評伝である。往時の文語文に平易な日本語で注釈を入れたりされているので、どれだけ日本語が達者なのかと思ったら、もとは英語で書かれた文章を編集者が訳したものらしい。いや、内容は充分すばらしいのだが。


膨大な先達の仕事を整理して分類して、その作業自体が自らの血肉になるかと思いきや、「見るべきものはほとんどなかった」と気付いたときの徒労感はいかばかりだったか、正岡子規よ。
徹底した過去作品の研究の末、写生俳句を提唱するに至った背景には、子規が「自分は武士階級の出である」ということに終生こだわっていたことが影響しているようだ。昔の武士なら当然身に着けていたであろう教養を要求した結果、口語や外来語は俳句から遠ざけられた。
そうすることで、江戸時代までの俳諧にあった「俳味」、つまり滑稽味は新たな「俳句」からは消し去られてしまった。それゆえ芸術に昇華したのかもしれないし、またそれが子規の意図するところだったのかもしれないが、失われてしまった軽みは、今日においてはお茶のペットボトルの横に書いてある素人川柳あたりにしか、もう見出せないのだろうか。
私が自分で詠む俳句には率先して俳味を入れて行きたいな。俳味とは茶化すこと。その対象は客体ばかりでなく主体も含まれる。…という意味においては、病身を冷徹に客観視したような子規の晩年の句には、これは俳味が確実に感じられるし、またそれで救われる部分もある。「写生」も突き詰めれば滑稽味になるということか。
次に俳句に革命が起きるとしたらこの点を乗り越えた時かな。短歌における「サラダ記念日」的なもの…のさらに先へ。
案外、ギャル文字や顔文字を盛り込んだ「写生」ならぬ「リアル」な俳句が、次の革新を起こすのかもしれない…

(´-`).。oO(ふるぃけゃ虫圭とひ〃こむフ↓ヒσぉと)