『日本人の肖像 二宮金次郎』

日本人の肖像 二宮金次郎 (角川叢書)
何故か今、二宮金次郎こと二宮尊徳(たかのり)が気になっている。最近の経済史やオジサン向け雑誌では、長引く不況下での経営のお手本として、大赤字の小田原藩経済を立て直した尊徳の仕事を称揚する特集記事を散見するようになってきたが、そういう方面はあまり興味がなくて、もともと尊徳が持ち上げられたのは何故だったのか、実際には何をしたのか…といったことを知りたくなった。


二宮尊徳天明7年(1787)7月23日に相模国栢山(かやま)村に生まれた。有名な「天明の大飢饉」(1782年から1788年)の頃だが、生家は田畑を失い、14歳で父を、16歳で母を亡くし、伯父の家に引き取られる。ここで苦労しながら「積小為大」の法則を見出した…というのが、あの「薪を背負って書物を読む」の図である。
やがて20歳で生家を再興し、小田原藩家老の家の再建を「分度」の精神で成し遂げたのが認められ、小田原藩士に召され15カ年計画で藩経済の建て直しに成功、その思想「報徳仕法」のフォーマット(もともと実践の学であったため金次郎自身が体系化せず門人たちがそれぞれまとめたので諸説ある)が各地に適用され、成功を収めた。
明治期に「報徳運動」として展開、二宮神社が建立され、修身国定教科書に幼少期のエピソードが盛り込まれ、小学校の校庭には銅像が建てられるようになっていく。


本書は、あの有名な「負薪読書図」の肖像画の形成過程を調べ、伝播を追うことによって、日本の国民国家形成過程を追うという野心的な探求をしている。
薪を背負い本を読んでいた挿話は、弟子の富田高慶が著した『報徳記』が初出らしく、それが絵になった「負薪読書図」は幸田露伴二宮尊徳翁』の口絵が初出だという。二十歳前後に『報徳記』を読んで感銘を受けた露伴は、堅実であること、過ちはすぐ改めることなど、その姿勢に影響を受けたそうだ。「赤い鳥」的ロマン主義的な無垢純真な子供観が広まる前のこと、露伴は子供にも不断の努力を求めた。そうした中で「負薪読書」が象徴的に描かれたわけだ。
しかしこの有名なエピソード自体、真偽は相当怪しいらしい。もともと尊徳は自らの幼少期についてほとんど語らなかったそうで、初出の『報徳記』は弟子の富田が自分の記憶や周囲の聞き書きをまとめたもの。筆者自身もそれを認めている。しかしいまとなってはあたかも周知の事実のようになっており、フィクションが既成事実になっていく「歴史」の危うさをここに感じる。


筆者は「負薪読書図」のネタ元として、『天路歴程』の表紙絵説と、前漢時代の官僚・朱買臣を描いた「朱買臣図」説を紹介して、後者のほうを有力視している。それは、「負薪読書図」を最初に図像にした『二宮尊徳翁』の筆者である幸田露伴は当然朱買臣を知っているはずで、中国では朱買臣と言えば即座に「薪刈り」と「歩きながらの読書とセットでイメージされる人物であること、数多く描かれている「朱買臣図」は年齢を除けばほとんど尊徳の「負薪読書図」と同じであること…などを根拠として挙げている。
ちなみにこの朱買臣なる人物、浅学にして私は全く知らなかったのだが、この人自身の生涯も貧困・負薪読書・妻との離縁・社会的成功…と、尊徳と共通するところが多いらしい。


こうしてイメージが固まった「負薪読書」は、富山の薬売りの「売薬版画」を通じて全国津々浦々まで広まっていく。その伝播過程に、近代国家としての「日本」のイメージが地方の農村に浸透していく過程を見てとる筆者の視点が興味深かった。
さらにその後、高岡の銅像業者によって銅像が製造され、日本全国の小学校にあの銅像が広まっていったのだという。荒俣宏の『帝都物語』では「地脈」を抑えるために全国に配置されていったという話になっていたが…。またこの高岡銅像とは別系統として、愛知周辺では石材の盛んな岡崎市を中心に尊徳の石像が製作されたために、東海地方では銅像ではなく石像が多いという。


本書を読み通して、一般に「歴史」「事実」と思われているものが、実は作られた(捏造された)ものであるかもしれない…という危うさを、改めて感じた。それは誰によってどういう意図で作られたものなのか。そこを冷静に見極めることが大事だと思った。