久留米あれこれ

所用で単身福岡は久留米まで。


たまたま拾ったタクシーの運転手さんがおしゃべりな方で、「いま久留米と大牟田でやくざの抗争があって、夜の街は危ないですから気をつけてくださいね。この10日間で6人くらい死んでるんですよ。」とか。郊外の小高い丘の上に鯉のぼりがはためいているのを見て「あそこはもともと保養施設だったんですけどね、地元のやくざが乗っ取りをくわだてたんですが、地元住民の強い反対にあって頓挫したいわくつきの施設ですよ。ほら、ああやって丘のてっぺんにある施設だから、城みたいに誰が攻めてきても守りやすいでしょ?」とか。
どこの国の話かと思ったが、ここではそれが日常なのだろう。


夜は(おそるおそる)久留米の街へ。同行した方がかれこれ10年ほど前によく通っていたという居酒屋「磯八」へ。
「刺身の王様が鯛なら女王はこれだよ」と大将が薦めてくれた「ひらす」という魚(ヒラマサのことらしい)や辛子高菜(昆布煮みたいな見かけでとにかく塩辛い)などをアテに、日本各地の地酒を堪能。どのお酒でも500円均一で、お銚子の大きさが変わるという面白い売り方をしていた。


翌日乗ったタクシーの運転手さんが昨日とは別人だがまたおしゃべりな方で、久留米藩の歴史を延々と語ってくれた。
いわく、関ヶ原の合戦ののち山中を落ちて行った石田三成を生け捕りにした田中ヨシマサという武将が、その褒美として久留米のお隣、柳川藩を与えられたた。で、ヨシマサの次男が分家したのが久留米藩。そして本家と分家で家督争いして分家が勝ったんだけど(この辺りうろ覚え)、跡継ぎが生まれずお家断絶。あとに封じられたのが有馬家だった。
有馬の殿様は見栄から(?)石高を本当より多く幕府に申請していて、つまり粉飾決済してたので、久留米に飢饉が生じたときに年貢を必要なだけ集められず、かなり農民を絞り上げたため領内が不穏な空気になったが、のち石高を修正し、良い殿様になった。
…で、その有馬家は大政奉還後伯爵となり、明治政府の有力華族となった。その一人が有馬頼寧(よりやす)*1、そう、あの競馬の有馬記念(当初の名前は中山グランプリ)を創設した人である、というトリビア

*1:有馬頼寧については以前『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』という評伝を読んだことがある。2009年5月6日の日記を参照。