『お言葉ですが…(9)芭蕉のガールフレンド』

お言葉ですが…〈9〉芭蕉のガールフレンド― (文春文庫)
不安な心を鎮めるためには知的好奇心を刺激したらよいと考え、大好きな高島敏男氏のエッセイで未読の1冊を引っ張り出してきた。印象に残った部分を断章でいくつか。

 君看双眼色 不語似無憂
 (君看よ双眼の色 語らざれば憂い無きに似たり)

もともとは白隠の書物に出てくるこんな一文を巡って、この文句を好んで書いた良寛、それを引いた五木寛之、作品集の扉にこの文句を使った芥川龍之介、日記に引いた太宰治などを例にあげ、この詩の解釈を探る章「語ラザレバ憂ヒ無キニ似タリ」
「私の目を見てごらん。何も言わないから憂いなどないように思えるだろう(けれど目には憂いが見られるでしょう)。」という意味で解釈すれば、まさにいまの状況でこんな方が多数いるのではないだろうか…と思ってみたり。


「こちらが○○になります」「○○でよろしかったでしょうか」といったバイト敬語の“元凶”を探った「ファミレス敬語はマニュアル敬語」では、こういう怪しい敬語の発祥は、1980年代の中ごろにリクルートが作ったファミレス店員向けマニュアルビデオだったことが語られている。某ラジオ番組で調査を呼びかけたところ、なんとそのビデオを作った当の本人から反応があったそうだ。
どうしてそんな敬語を新造したのかまでは書いていなかったが、それからすでに30年余がたち、現在バイトで変な敬語を無批判に使っている世代の大半にとっては、生まれる前から世の中に流通していたのだから、まあそれも仕方が無いということか。


森鷗外が乃木大将の殉死を陰ながら擁護しようとして書き上げた『興津彌五右衛門の遺書』という短編について書かれた「殉死パフォーマンス」では、江戸時代にどんな人が藩主に対し殉死を行っていたのかが書かれていて興味深かった。

(前略)…最も多いのは殿様の衆道の相手であったお小姓たちで、つまり愛のあかしの『心中立て』である。…(中略)つぎにかぶき者、つまり不良侍である。この連中は命を屁のようにあつかうのが売りものだから、『やってやろうじゃないか』と腹を切る。
 それから、身分がごく低くて殿様とかかわりのあった者。…(後略)
 家老たちがやめろやめろととめたのももっともで、要するにふつうの武士の筋道から外れた型破りの連中が派手に死んで見せて世の喝采を博するのだから、幕府にとっても苦々しい限りで、断固これを禁圧することにしたのである。