『二都物語(下巻)』

二都物語 (下巻) (新潮文庫)
ディケンズの『二都物語』を読了。
いよいよパリ市民による革命が起きる。フランス革命というと、市民による封建貴族の打倒、「自由・平等・博愛」の標榜など民主主義の栄光のように歴史で習うのだが、鬱屈した怒りの蓄積と熱狂の中で人がどのような行動を取るか…端的に言って暴力の嵐(ギロチンによる容赦なき断頭)が吹き荒れるわけだが、その狂乱ぶりがうすら寒い。

「おれたちはね、そこに立っているそいつに、何もかもかすめ取られたんだ。おれたち平民はみんなそうなんだ。犬なんて言やがってね、みんなお偉方の餌食にされてきたんだ──年貢は情け容赦もなく取立てられる。ただ働きはさせられる。おれたちの穀物は、あいつの粉ひき場でひかなきゃならないし、何十羽というあいつの家禽は、おれたちのなけなしの作物で養わなきゃならないし、そのくせ、おれたち自分で一羽でも飼おうもんなら、たちまち死刑だ。なにしろ取られっ放しの、ふんだくられどおしさ。だもんだから、たまに肉の一片でも手にはいってみろ、食べるだけでもびくびくもんだ。表扉には閂をかける、よろい戸はおろす。うっかりあいつの家来にでも見つかろうもんなら、たちまち取上げられちまうんだからね──まあ、そういったわけで、身ぐるみはがれては、追い追われどおし、みんな貧乏のどん底さ。だから、親父はよく言ったもんだ。子どもを生むなんてのはおっそろしいこった。せいせい女房どもはみんな不胎女になって、おれたちみじめな連中は、一日でも早く死に絶えてしまうことを、いちばんに神さまにお祈りすることだってね!」

…この怒りである。
ちょうどこの小説を読んでいるところだったので、チュニジアやエジプトで現在起きている事態にも、もろ手を挙げて賛同はできないのだ…。旧勢力打倒のムーブメントは勢いを増しても、熱狂そのものは市民生活を救えない。その後に何を目指すのか。閑話休題


全ての登場人物を結ぶ糸が次第に明らかになっていく下巻は、その熱狂のフランス革命という背景もあいまって圧巻なのだが、伏線が次々と回収されていく様は逆に言うとご都合主義とも思える。
こうした筋書きも含め、大時代的といえば大時代的な小説には違いないが、それにしても新潮文庫版の巻末に添えられた訳者の突き放しきった「解説」の冷たさはいったい何なのか? 「ディケンズの小説に構成はない」とか、割と痛烈にこき下ろしているのが不思議だった。だったら訳さなきゃいいのに。