『新・平家物語(十六)』

新・平家物語(十六) (吉川英治歴史時代文庫)
ついに最終巻。日記をさかのぼると第1巻を読み始めたのは2009年11月2日だから、結局1年以上かけて読んだことになる。しかもぎりぎり大晦日まで。感慨深い。
最終巻は義経の奥州行(安宅関、能登での平時忠との邂逅は感動的)、衣川の戦いでの最期*1までが大半を占め、頼朝が生涯絶頂を迎えた上洛の後、落馬事故が元であっけなく死ぬまでが駆け足で語られる。
第15巻のときにも書いたが、吉川平家では義経のキャラクターが(まさに「判官びいき」で)良い者すぎるので、無用な戦乱を避けるために奥州に落ち延びて甘んじて最期を迎えた…という書きっぷりにも、やや不満を覚える。優しすぎる性格と、奔放で独創的な戦略家としての人格が、無理な接ぎ木のように思えるからだ。史実ではかなり奔放さが勝った人柄だったようで(…という場合の「史実」も、幕府側から書かれたものだったりするので微妙だが)、その辺は今後も探っていきたいと思った。
その点、人間の欲望に忠実で、作中でも独特のある魅力を放っていた2人の登場人物、朱鼻の伴卜と金売り吉次の最期もまた印象深い。2人の政商は、日本のためとか上司のためとかのお題目は置いておいて、欲望に実に正直に生きただけ、いっそ気持ちが良い。


さて、諸行無常を語り続けた本作は、物語の幕開け近くから折に触れ要所要所で登場してきた一介の医師、阿部麻鳥とその妻・蓬とが、吉野山の満開の桜並木の中で弁当を広げしんみりと述懐する場面で幕を引く。

「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。」

…7年にわたる連載の、さらにその数年前に、作者吉川英治の中で着想されていたというエンディング。敗戦のショックから一時筆を絶っていた筆者が、戦後の復興を前にして、再び読者に語り掛けたいと思った一番の気持ちは、まさにこんな素朴な真実だったのだ。


最後にもう一度平家物語冒頭の有名な一文を載せておこう。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
驕れる者久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。

*1:関係ないけど、衣川から逃げ落ちた鷲ノ尾三郎が、燃え盛る義経の居城を振り返り眺め、義経の真心に思い至り「生きよう」と決意する場面は、三島由紀夫金閣寺』のラストシーンに通じるものがあるように思った。