『どうせ生きるなら』

どうせ生きるなら (角川oneテーマ21 (A-55))
元木昌彦氏の『競馬必勝放浪記』という本で、寺山修司大橋巨泉が日本の競馬を変えた…という話が出ていたのを読んで*1、改めて大橋巨泉という人の発言を読んでみたくなった。
ということで市立図書館で検索してみたものの、既に競馬に関する巨泉氏の著者は見当たらなくなっており、いま書架に並んでいるのはテレビ司会者時代を振り返るエッセイか、「セミ・リタイア」関連のエッセイ、あるいは民主党から立候補・当選、そして議員辞任をした当時の本がほとんどだった。
それらをパラパラとめくってみて、中身に興味を覚えた本書を借りてきて読んでみた。
56歳での「セミ・リタイア宣言」から16年、本書の中で氏は「あの時点でのセミ・リタイアは早過ぎた」と振り返っている。そもそも「リタイアして好きなゴルフ三昧の日々を送れるようになっても、ドライバーで150ヤードくらいしか飛ばせなくなってからではプレーが面白くない」という理由で、まだまだ飛距離が出るうちにセミ・リタイア宣言をしたそうだが、その後のドライバー性能の向上もあり、また自身の健康管理の成果もあって、70歳でも260ヤードを飛ばすことができるため、「引退は早過ぎた」と悔いているようだ。
それでも、結果的に長いと感じている引退生活を飽きずに過ごせるのは、パートナーの存在と、打ち込める趣味の世界(60を過ぎて西洋美術に目覚めたのが大きいそうだ)のお陰だと述べている。
カナダのバンクーバーニュージーランドのオークランド、そして日本…と3都市の家で、一年間を常に「花の咲く季節」で過ごす氏のようなセミ・リタイア生活は、無論どんな人にもできる生活ではないが、発想は見習うべきものがあると感じた。


ちなみに巨泉氏の祖父は、江戸切子中興の祖としてその筋では有名な人らしいが、その子である巨泉氏の父は跡を継ぐことをよしとせず、独自の商売を始めた。さらには戦前派には珍しく「血のつながりより好きで一緒になった仲同士」といって奥さん(巨泉氏の母)を大事にしたらしく、子供を置いて2人で旅行に出かけたりしていたそうだ。そんなドライで日本人離れした発想の父親の後ろ姿が、巨泉氏の考え方に大きな影響を与えているという。
ちなみに「巨泉」というのはもともと俳号だった…というのは以前も書いたが、中学生の時に付けたものらしい。

あとから考えると、父の実存主義の影響で、親(祖父という話を聞いた)からつけられた克巳という名前より、自分で考えた名前を欲していたようだ。中学生の身で、『アイディアの沸く大きな泉』(それに巨人ファンだったことも加わって)という名前をつけたという事実は大きい。