『ベルリンの壁の物語(下)』

ベルリンの壁の物語〈下〉
それまで自由に行き来できた西ベルリンと東ベルリンの間に、ある日突然「壁」が築かれたところまでが書かれた上巻。
続く下巻は、自由を求めて「壁」を越えようとした人々の列伝から始まり、そして築かれた時と同じくある日突然訪れた「壁」崩壊の日がクライマックスとなる。
壁の崩壊を同時代人として体験しているはずなのに、その辺の経緯を全然覚えていなかったのには我ながら呆れた。まあ一つには、ヨーロッパと日本の時差のせいかもしれない。壁崩壊の決定的瞬間は日本時間の深夜に訪れたので、多くの日本人にとっては翌朝のニュースで見た「壁に上って興奮しているベルリン市民」というイメージだけが鮮烈に残っているだろうだから。その前後の経緯は、記憶の隅に追いやられているのではないだろうか(私だけ?)。


その歴史的瞬間まで、実に28年間にわたって展開された壁突破を巡るドラマ。ある者は銃撃され、ある者は川で溺死して数百人が犠牲になっている(正確な人数は東ドイツの徹底した秘密主義のせいでいまだに分からない)。
そうした犠牲者たちについて書かれた文章で、読んでいてハッとさせられた部分。

 歴史学者にとって最も難しいのは、歴史の背景をなす三三〇万人の沈黙する人びとと、わけはどうあれその三三〇万人の中から抜け出し、闇に乗じて銃口を背にして走ることを選んだ少数の人びととのあいだで、バランスを正しく保つことである。…(中略)こうした人びとは、氏名など最も基本的な事実さえ失われていることが多い。こういうパラグラフは飛ばし読みさればちで、否応なくどれも似たようなものとなる。そして、そこに登場する人びとが生きた人間だったこと、その人を愛し、死を惜しむ人がいたことは忘れられがちになる。彼らは、昔の白黒のニュース映画に描かれたメロドラマの主人公ではなく、何かに向かって、あるいは何かから逃れ、自分に出せるだけの力を振り絞って走った、実在した人びとだったのである。

そう、犠牲者たちの記録をつづった部分をまさに「飛ばし読み」しかけていた私自身、冷や水を浴びせられた気持ちになった。


人の命を犠牲にしてまで、共産主義の囲い込みを至上命題とされ厳守されたベルリンの壁。西ベルリンの建物や人々が壁のすぐ向こうに見えるのに、「六、七メートル先の向こう側よりも、月へ行くほうがやさしいと思えた」(当時東ベルリンで兵役についていたある男のコメント)という異常事態。
ところがこの鉄壁は、ほとんど「手違い」と言ってもいい1989年11月9日のある東ドイツ高官による声明発表を受けて、なし崩し的に無効化される。簡単に説明すると、「そのうち自由に行き来できるビザを発行する予定である──ただしビザ取得には厳しい条件をつけるし、いつから発行するかは決まっていない。」という内容だったスピーチを、広報官が後半部分の事情をよく飲み込んでいなかったため、「今すぐ自由に行き来できる」という認識が広まってしまったわけだ。
悪い冗談が、悪い冗談によって崩れ去る…犠牲になった人たちや30年弱にわたり抑圧され続けた330万人の東ベルリン市民を思うと、実にたちの悪い皮肉だ。