『生物と無生物のあいだ』

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)
評判に違わず、これはかなり面白かった。
1ナノメートルの大きさのたんぱく質の、さらにそのDNAをいじくる…といった非常に微小な世界の話をしていながら、文章のタッチがとても詩的なのに感心した。それも自己陶酔型の詩的文章ではなくて、筆者も冒頭で名前を出している『ファーブル昆虫記』のような筆致。つまり日常生活から遠く離れた「学問のための学問」の記述ではなく、親近感の持てる地に足の付いた文章だと感じさせるのだ。時折挿入される筆者の少年時代や研究生時代の挿話が、そうさせているのかもしれない。


この本のなかで最もハッとさせられた問いかけは、シュレーディンガーという物理学者が残した「なぜわれわれの身体はこんなにも大きいのか」というものだった。

 さて、原子はなぜそんなに小さいのでしょうか?
 これは確かに一寸ずるい問いです。というのは、今私が問題にしているのは、実は原子の大きさではないからです。今問題になっているのは、実は生物体の大きさ、特に、われわれ自身の身体の大きさなのです。(中略)
 かくして、われわれの問いの本当の目的は、二つの長さ──われわれの身体の大きさと原子の大きさ──の比にあることが見究められたのですから、独立的な存在として原子の方が文句なしに先であることを考えると、先ほどの問いは、本当は次のようになります。われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか? と。

…うーん、こんなこと考えてもみなかった。
確かにわれわれの身体は、原子(1cmの1億分の1程度)に比べてとてつもなく大きい。それはどうしてなのか?
実はそこに生命の生命たる所以というか、生命の持つ不思議な力(本書でいう「動的平衡状態」)の秘密が隠れているというのが、本書のひとつの肝。これは目からウロコが落ちた*1


それにしても人文学的(?)曖昧模糊とした思考世界の中で生きている私にとって、自然科学の底流にある懐疑主義的姿勢には、ほとほと感心させられる。

 ちなみに、生命科学では常に観測データが理論よりも優先する。とはいえ、それは観測が正しく行われているとしての話である。
 科学者はその常として自分の思考に固執する。仮に、自分の思いと異なるデータが得られた場合、まずはその観測の方法が正しくなかったのだと考える。自分の思考がまちがっているとは考えない。それゆえ、自分の思いと合致するデータを求めて観測(もしくは実験)を繰り返す。

…と、ここまでは科学者だけでなく全ての分析者が陥りがちな罠である。

 しかし、固執した思考はその常として幻想である。だから一向に合致するデータが得られることはない。科学者はその常としてますます固執する。隙間に落ちた玉を拾うために隙間を広げると玉がさらに深みにはまるように、あてどもない試みが繰り返される。研究に多大な時間がかかるのは実はこのためである。
 仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないから、思い通りのデータが出ないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくないから、思い通りのデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力(りょりょく)が問われる局面である。実験がうまくいかない、という見かけ上の状況はいずれも同じだからである。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということになる。

最後の一文がグサッと胸にささった。
知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということ
…しかもそれは、あくまで「最低条件」なのだ。

*1:この問いに対して筆者が用意した答えについては、ぜひ本書で直接読んでください。一言ではうまくまとめられそうにないので。