『終わらない庭―昭和の三大作家とめぐる「宮廷の庭」』

終わらない庭―昭和の三大作家とめぐる「宮廷の庭」
三島由紀夫が仙洞御所を、井上靖桂離宮を、大佛次郎修学院離宮をそれぞれ訪うた様子をしたためた随筆(初出は1968年淡交社刊『宮廷の庭』)をまとめ、建築史家で元工学院大学学長の伊藤ていじ氏が各庭園の解説をつけた、なんともマニアックなエッセイ集。
場所は違えど同じ「天皇家の庭を巡り感想を書く」というテーマで3人の作家が筆を揮っている。相変らず回りくどくて天皇制礼賛も折り込む三島、庭園の創設者である智仁親王を巡るちょっとした短編小説の趣きの井上、修学院を語りながら京都の風景や時の移ろいをダイナミックに描写する大佛…と、各人の色が短い文章によく表れていて、比較して読むとなかなか面白い。


また、これは執筆依頼時の条件だったのか、それとも偶然の一致なのかは判然としないのだが、3人がそれぞれに「日本の庭園」と「西洋の庭園」の比較を行っており、それもまた興味深かった。
その中で、三島由紀夫の分析を、少し長くなるが引用しておく。このエッセイ集のタイトル「終わらない庭」という単語も、ここに出てきたものからとったのだろう。

 庭がどこかで終わる。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
 空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景にたよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
 仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。
  (略)
 かうして庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
 われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。又、生にあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験ではない。それはすでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、幾何学上の定理の美しさを知るであらう。