『マイルス・デイビス自叙伝(1)』

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)
読み終えました。これは非常に面白かったです。
チャーリー・パーカーソニー・ロリンズジョン・コルトレーンキャノンボール・アダレイセロニアス・モンクビル・エバンスハービー・ハンコック…。これまで私が「点」で聴いていたジャズ・ジャイアントたちが、マイルスという人物を中心にして「線」で結ばれた感じ。
マイルスが活動の拠点としていた1940年代から50年代、60年代あたりのNYというのが、常にジャズ・ムーブメント中心地であり続けていたから…と言ってしまえばそれまで。しかしマイルスは、今では評価も固まっている人物達も、ほとんど無名時代から発掘して自分のバンドに引き入れたりしているのが凄いと思いました。「才能を引き寄せる才能」、もしくは「才能を触発する才能」とでもいうべき天賦を持っていたのかもしれません。


随所で繰り返しマイルスが述べる、白人に対する敵愾心。

 オレが頭にきてるのは、自分達が見つけると、それを全部自分達の手柄にしてしまう、白人のやり口だ。自分達が見つけるまで、何も起きてなかったという具合に決めつけるだろ。おまけに白人連中が見つけるのは、必ず遅いときてる。黒人を除け者にして、功績を全部一人占めしようとするんだ。…(中略)ビバップが流行ってから白人の批評家どもは、まるで自分達がビバップを、オレ達を五二丁目で発見したみたいに言いやがった、クソッ。もしそれを否定すると、過激派とかトラブル・メイカー呼ばわりされてしまうんだ。

 ジュリアードの授業は、相変らず退屈なものだった。オレにとっては、なんの意味もなかった。まったく失望してしまった。…(中略)オレは『ミントンズ』*1の一晩のセッションで、ジュリアード二年分以上のことを学んでいた。ジュリアードなんか卒業したら、新鮮味のない、ただの白人スタイルを身につけただけのミュージシャンになっていただろう。しかも、奴らには偏見があって、オレはそいつも我慢できなかった。
 音楽史の授業で、白人女が講師だったことがある。教壇で彼女は「黒人がブルースを演奏する理由は、貧しくて綿花を摘まなければならないから、悲しくて、その悲しみがブルースの根源となった」みたいなことを言った。冗談じゃない。オレはすかさず手を上げて、こう言ってやった。「ぼくは東セントルイスの出身で、父は歯科医なので金持ちですが、でもぼくはブルースを演奏します。父は綿花なんか摘んだことがないし、ぼくだって悲しみに目覚めてブルースをやっているわけじゃありません。そんな簡単な問題じゃないはずです」
 そのスケは真っ青になって、それ以上何も言えなかった。あいつは、こんなふざけた話を、どこかの馬鹿が書いた本の受け売りで教えてやがったんだ。ジュリアードじゃ、こんなつまらないことが、当り前の顔して教えられていた。オレは、フレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントンこそ天才だと思っていた。ところが、あのスケは彼らの名前さえ知らない。逆に教えてやればいいんだろうが、オレにそんな暇があるものか。

 マーロン・ブランドジェームズ・ディーンは新しい時代のスターで、“怒れる若者”の反抗的なイメージを身につけていた。「理由なき反抗」という映画は、当時大ヒットになっていた。黒人と白人が、一緒になりはじめて、音楽の世界でも、アンクル・トム的なイメージはなくなりつつあった。誰もが突然に、怒りやクールさやヒップさや、すっきりした洗練さみたいなものを求めはじめたようだった。こうした反抗的なイメージがもてはやされる中で、オレのクールな態度は、オレをスターにする一因になった。もちろん若くて格好よかったし、ファッションもキマっていたことは言うまでもないがな。
 反抗心、黒人、社会のルールに従わないクールさ、ヒップ、怒り、洗練、クリーン……。なんであれ、オレにはそのすべてが揃っていた。しかもオレは、それ以上だった。もちろん、ずば抜けた演奏をしていたから、反抗者のイメージだけで評判を取っていたわけじゃない。オレはトランペットを演奏し、創造性にあふれ、想像力にも富み、信じられないほど緊密で芸術的な、ジャズ界最高のバンド*2を率いていた。これこそが、評価を勝ち得た最大の理由だった。


あとこの「自叙伝」は、もちろんマイルス自身が書き起こしたものではなくて、筆者のクインシー・トループが3日間に渡って行った単独インタビューを編集したもの。それにしても、少年時代からインタビュー当時に至るまで、非常に細かいことまで年代ごとに覚えていて、大した記憶力だと思いました。しかも自分にとって不利な出来事やヘロイン常習時代の話、嫌いだった人物のことまで、割と公平に述べているのが偉いと思います。

(16歳の頃の初恋の話)
 アイリーンには、ぞっこん惚れ込んだ。オレの初体験の相手も彼女だった。イキそうになった瞬間、小便が出るかと思って、飛び上がってトイレに駆け込んでしまったっけ。夢精したことはあったが、イクってことがわからなかったんだ。卵を潰した時の感じくらいに思っていたんだ。あの初めての日まで、オレはセックスの感触をまるで知らなかったんだからな。


心に残った言葉。

 オレは、自分がしたことを後悔することは、まず、ない……たまにはあるけどな。だから、ジュリアードを辞めたときもそうだった。オレは世界一のジャズ・ミュージシャンとやっていたんだ、何を後悔するっていうんだ、ナッシングだ。オレは後悔しないし、決して後ろを振り返ったりはしない。それが、オレという男の生き方だ。

 …(前略)音楽、絵画、著作、ファッション、ボクシング、何をしようと、そこに自分のスタイルがないとダメだ。洒落ていて、創造的で、想像力に富んだ革新的なスタイルもあれば、そうじゃないのもある。

*1:NYに出てきたマイルスが通いつめ、チャーリー・パーカーたちと一緒に演奏をした、ビバップ勃興のクラブ

*2:1955年当時。マイルス以外のバンドメンバーは、テナーサックス:ジョン・コルトレーン、ピアノ:レッド・ガーランド、ベース:ポール・チェンバース、ドラムス:フィリー・ジョー・ジョーンズ