『李陵・山月記』

李陵・山月記 (新潮文庫)
私なりの「夏休みの読書」ということで、佐渡への行き来で読んだ。
ご多分にもれず、中島敦の初読は高校の現代文の教科書だったと思うが、面白くてすぐに新潮文庫版を購入し、爾来短編の気安さもあり幾度か再読している。


表題作の「李陵」は、漢の武帝の頃に、北征して匈奴に囚われた武将・李陵を中心に、李陵をかばったがために宮刑にされた司馬遷匈奴に囚われながらも変節を固辞しつづけた蘇武の三者三様が描かれている。
まだ草稿段階で中島敦が夭折してしまったため、未完成の作品だという。3人の話がもう少し有機的に描かれていてもよかった…とも思えたのは、そのためか。


同じく表題作山月記。こちらが現代文の教科書に載っていたもの。
唐の玄宗の頃に、己の才能を信じ詩作に没頭するため官を辞した男が、いつまでたっても芽が出ず、傲慢と現実の狭間で狂ってしまい、ついには虎と化してしまう…という話。

己(おれ)は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己(おのれ)の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。…(中略)…今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅かばかりの才能を空費して了(しま)ったわけだ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。


文庫の最後に付けられた中島敦の略年表を見ると、いまの私と同じ31歳の年にはこうある。

昭和十五年(一九四〇年)三十一歳
二月、次男格誕生。この頃より、アッシリア古代エジプトの歴史を勉強しはじめ、プラトーンのほとんど全著作を読む。暮れごろより喘息の発作がしばしば訪れ、週一日か二日という勤務状態になる。

アッシリアプラトン…。私も何か勉強しはじめようかしらん。


文庫には他に、弓の名人を目指した男の話「名人伝」と、孔子とその弟子・子路との関係を描いた「弟子」の2編が収録されている。
このうち名人伝のほうは、道を究めた末に男が到達した究極の名人の姿とは、「弓を射ないこと」だった…という話。
まだ青かった頃に老荘思想に凝っていたことのある私には、この短編は懐かしくもあり、読み返すのが少なからず恥ずかしくもある一篇だ。私の父親は弓道の師匠をしているのだが、その父にこの本を示し、得意げに「無為自然」を語っていたことがあったっけ…。思い出すと顔が赤くなる。