『「日本文化論」の変容 戦後日本の文化とアイデンティティー』

「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー (中公文庫)
先日、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読み終えて*1何か物足りなさを感じ、『菊と刀』を論じた本を探していてこの本に行き当たった。青木保・著。


菊と刀』以降のいくつかのエポックメイキングな「日本人論」を引きながら、戦後の日本人論の変容を大きく以下の4時期に分類。

  • 「否定的特殊性の認識」(1945〜54) マルクス主義、あるいは近代合理主義の立場から、戦争に敗れた日本は「近代化が達成されていない、前近代な社会である」とする否定的な見方が受容される
  • 「歴史的相対性の認識」(1955〜63) 経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった経済成長の中で、西洋近代化の歴史的文脈から離れ、日本には日本の「近代」があるのではないかという意見が出はじめる
  • 「肯定的特殊性の認識」(前期:1964〜76,後期:1977〜83) 高度経済成長を遂げる日本に対し、その原因を求める内外からの研究が行われ、「タテ社会やイエ制度など日本独自の文化が要因ではないか」と、日本人を鼓舞するような考え方が広まり、バブル経済の中で頂点に達する
  • 「特殊から普遍へ」(1984〜) 「日本は特殊だ」と言い張って国際(西洋)社会のルールを守らない日本に対し、欧米でジャパンバッシングが見受けられるようになり、行き過ぎた日本文化の称揚の見直しの時期に入る

菊と刀』自体、すばらしい研究であるのは間違いないが、さまざまな問題点もあると筆者は指摘。ただし良きにつけ悪しきにつけ、戦後の日本人論(本書では「日本文化論」と呼ぶ)は、『菊と刀』への批判から脱却していないところが最大の問題…というのが本論の梗概だと思う。


本著はバブル崩壊直前に書かれたものなので、分析は上記の第4期で終わっているが、その後の国際社会における日本のポジションを示唆するような論が随所に見られ、興味深かった。


本論とは関係ないが、本文でやたらと「 」(かぎ括弧)が使われていて、読みにくかった。「いわゆる○○」といった意味で使われていたり、また強調の意味で使っていたりするのだろうが、あまりに多用しすぎるとかえって読みにくい。欧文ならイタリックなどで書きたいところなのだろう。
ほかでも、主語と述語の間にやたらと修飾語や引用を入れる文体が、読みにくくて仕方なかった。厳密であろうとするが故の陥穽か。