『やがて哀しき外国語』

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)
飛行機の離陸を待つ間と、遅れに遅れたフライトの間に読み終えてしまった。村上春樹さんが米国のプリンストンに住んでいた頃のエッセイ集。

東京奇譚集』の冒頭で挙げられていた、例のトミー・フラナガンのラスト2曲の話と、10 to 4の話の初出は、このエッセイ集に収められた「誰がジャズを殺したか」という一篇に付けられた「後日附記」だった。


ここに書いてある物事については、湾岸戦争前後のアメリカのマッチョイズムがそこはかとなく通奏低音として流れていて、それはそれで現在の子ブッシュのアメリカと符合していて、まあ「なるほどね」って感じで読んだ。
一つすごく気に入った表現を見つけた。それは「文化的焼き畑農業」という表現。

…たとえばオペラなんて流行じゃないよ、今はもう歌舞伎だよ、という風になってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。…これはまったくの文化的焼き畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらく草も生えない。
(「大学村スノビズムの興亡」)