『死をポケットに入れて』

死をポケットに入れて (河出文庫)
チャールズ・ブコウスキー晩年の日記(エッセイ)集。
ブコウスキーといえば「マシンガンのように」凄まじい勢いでタイプライターを叩いていたイメージだが、なんと91年(御年71歳のとき!)にタイプライターからMacintosh II siに鞍替えし、以後は「わが友マッキントッシュ」とまで呼ぶ寵愛ぶり。

…タイプライターで書くのは、泥の中を歩いているようなものだ。コンピューターは、アイス・スケートだ。猛烈な突風だ。言うまでもないことだが、自分の中に何もなかったら、どちらでも同じことだ。それに書いた後には必ず、修正作業がある。くそっ、以前のわたしはすべてを二度書かなければならなかった。最初にとにかくざくっと書いて、二度目に間違いを正したりまずい部分を書き直したりする。こっちのやり方だと、楽しむのも、得意になるのも、逃げ出すのも一度ですんでしまう。

スクリーン上ですぐにスペルチェックや推敲ができる点が気に入ったようだ。この日記もMacで執筆。


91年8月から93年2月までの2年半の間の、33日分の日記が収録してあるが、94年には亡くなっているので、最晩年の心理状態が吐露されていることになる。
邦題のもとになった次のような日記に、それがよく表れている。

 …ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。…(略)わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」


33日分の日記には、ほとんど毎日通っていた競馬への思いや音楽の趣味などに加えて、ブコウスキーの思う作家のあり方、詩や小説のあり方などが垣間見えるエピソードが並べられている。
それらに共通する姿勢は、何だろう?
思うにそれは、「一過性のもの、失われるべき運命への諦観」ではないだろうか。
競馬場では負け続ける。Macはいきなり爆弾マークを表示してダウンする。ボクサーは圧倒的弱さで負ける。すべてが敗者の視点で描かれている。
そこでは敗北はあらかじめ用意されたもの。そして彼らが再び浮上することは、決してないのだ。

 …どれだけ多くの情報がインプットされたとしても、コンピューターですら馬の予想をすることはできない。自分が何を買えばいいか教えてもらおうと、誰かに金を払ったりすると、必ず負けることになる。
 …(略)敗北の後に部隊を再編成してまた進軍していくということ以上に、そこから学べるものは何もありはしない。それでもほとんどの人間が激しい不安に襲われてしまう。彼らは失敗を恐れるあまり失敗してしまうのだ。

 わたしは誰と競い合っているわけでもないし、不朽の名声に思いを巡らすようなこともまったくない。そんなものはくそくらえだ。生きている間に何をするかが問題なのだ。太陽の光が燦々と降りそそぐ中、ゲートがぱっと開かれ、馬たちが光の中を疾走し、所属の厩舎の派手な色の服と帽子を纏った小さくて勇敢な悪魔たち、すなわち騎手たちは、誰もが勝利をめざし、見事に自分のものにする。行動と挑戦の中にこそ栄光はあるのだ。死などどうだっていい。大切なのは今日、今日、今日なのだ。まさに然り。

そしてブコウスキーは書き続ける。

新しい一行はそのどれもが始まりであって、その前に書かれたどの行ともまったく関係がない。毎回新たに始めるのだ。