『フラニーとゾーイー』

J・D・サリンジャー・著、野崎孝・訳。ISBN:4102057021
女学生のフラニーが、久々に会った恋人とすれ違いの会話を続けるうちに、息苦しくなって失神してしまう「フラニー」という短編と、その続編として、実家に帰り弱って伏せっているフラニーを、兄のゾーイーが先輩としてのアドバイス(?)を加える「ゾーイー」という短編の、二つからなる物語。
偉大なる兄たちに、幼い頃から、キリスト教の欺瞞や東洋思想なんかを吹き込まれて育った、フラニーとゾーイー
いざ大学生となって世に出たときに、この世の中の、何と言うか「崇高ならざるもの」に対する嫌悪感から神経衰弱になってしまったフラニーに対し、ゾーイーはこう諭す。

「単純な論理で考えれば、物質的な宝をほしがる人間と──知的な宝でも同じことだけど──それと精神的な宝をほしがる人間との間に、ぼくの目に見える相違は全然ないね。きみが言うように、宝は宝だよ、なんていったって。そして、これまでの歴史に現れた世を厭う聖者たちの90パーセントまでは、ほかのわれわれとまったく同じように、欲が深くて魅力のない人間だったようにぼくには思えるな。」

フラニーやゾーイーに難解な思想を授けた長兄シーモア(数年前に自殺)は、同時に「生きる智恵」も二人に授けていた。それは、どこかで我々を見ている愛すべき架空の小市民『太っちょのオバサマ』のために頑張っていこうじゃないか、という処世訓(?)。
なんか…良いか悪いかは別として、いま何かを思い詰めている人に読んで欲しい、そんな物語だった。