長谷川等伯という人物

先日、能登の父方の実家に帰ったところで、能登七尾出身で織豊政権時代に活動していた絵師・長谷川等伯について考えている。
いまの七尾といったら紛れもない田舎だけど、中世から近世にかけては海運の拠点だったため、それなりの都市だった。しかしそこはやはり北陸の地方都市のこと。等伯の心中には、京の趨勢に対する憧れと反骨精神が並存していたのだろう。そしてそれが長じて後の狩野派との反目というか、一種独特のオルタナティブな立ち位置につながっていったのではないかと、同じ北陸出身の私は勝手に想像する。
等伯は、桃山絵画の本流である障壁画にも斬新な可能性を提示していたのに、それは残念ながら後世に伝わらなかった。おそらく、今日において等伯の残した画のなかで一番有名なのは「松林図」だと思う。あの画自体、幽玄な雰囲気と大胆なモチーフには文句のつけようがないけど、どうやら下絵だったというし、あれが等伯の全てでは決してないのだろうから。