『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』

鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー)
征夷大将軍となり鎌倉幕府を作ったのは源頼朝だが、その直系は二代頼家、三代実朝で途絶えてしまい、以降は藤原摂関家から将軍を迎えることになる。ということで表題の「鎌倉源氏三代」なのだが、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめさせたまへ」など数々の和歌を作り『金槐和歌集』を編纂した実朝はまだしも、頼家ってどんな人だっけ? というのが正直なところ。しかも頼家も実朝も、最後は家臣や弟に殺されているのだ。その辺どうなっていたのか整理したくなって、この本を読んでみた。


「鎌倉三代」のうち、まずは頼朝。筆者の整理する源頼朝像は、冷徹で計算高い政治家というイメージ。
以仁王の令旨をきっかけとし各地で反平氏の挙兵が相次ぐのだが、あくまでこの令旨の枠組み(奸臣平家と“偽帝”安徳を排除し新たな天皇を立てる)の中で行動し、以仁王の子・北陸宮を奉じてストレートに京に攻め上った源義仲に比べ、頼朝は最初から後白河法皇と密使を交わしつつ、「平氏が邪魔なら追い落としますけど、もしそこまでしなくてもいいとおっしゃるなら、今の平氏の権力は強すぎますから、平氏は西日本を守ることにして、残った東日本は源氏が守りますよ」という提案をするのだが、挙兵まもなくの時点で、既にして東国における源氏の権力の担保を図っている。
それに対する後白河もさるもの、平氏都落ちの第一の勲功を頼朝とし、実際に京まで兵を進めた義仲らはその次とした。源氏同士の分断策でもあるのだが、後白河としても戦後処理を以仁王令旨のパラダイム平氏に代わり源氏が新たな帝を立てること)から脱却させたかったということだろう。この辺の老獪さ、私が後白河法皇に魅力を感じるゆえんである*1
こうして頼朝は、京にはなかなか上らず鎌倉で地盤を固め(この辺り、都志向の源氏の血統と東国志向の源氏の血統という違いもあるようだが)、“合法的”に勢力圏を拡大していく。征夷大将軍はそのための便宜であり結果にすぎず、最初から狙っていた地位ではないのだろう。

 頼朝が治承・寿永の内乱で獲得した戦時下の権限は、後白河や公家・権門寺院との交渉で次々と縮小される中で、平時の体制としての守護地頭の制度へ移行していった。頼朝は日本国の治安を守る日本国惣追捕使となったことで、国ごとに守護を任命することが可能となり、日本国惣地頭として幕府が関与する公領荘園の治安を守る責務を負うことで地頭を管理することが可能になった。
 頼朝の日本国惣守護・惣地頭は幕府が中世国家を構成する権門として確立した地位と権限であり、ここが朝廷の中の役職を獲得することによって武人政権をつくっていた義仲以前の武家との決定的な違いであった*2

こうして築き上げた新たな権門=鎌倉幕府を守るため、挙兵以来の臣下であってもその枠組みから逸脱しようとする者は容赦なく粛清した頼朝だったが、画竜点睛を欠いたのはその組織をうまく後継者に譲れなかったことだった。


頼朝の死後、嫡子頼家が鎌倉殿(=日本国惣守護・惣地頭の地位)を継いだが、頼朝が敷いた将軍による専制的な支配のレールは、頼朝の妻政子の家という外戚として権力をふるいたい北条氏にとっては好ましいものではなかった。後見人の比企氏や幕府の重臣梶原景時らを中心に権力の集中化を図った頼家だったが、いかんせんそれを成し遂げる前に、幕府内の勢力争いの形で北条氏により次々と側近を追い落とされ、最後は政治から離れ鷹狩や蹴鞠に没頭するようになり、病床で鎌倉殿の地位を弟の実朝に譲ったのち、軟禁状態の修善寺で殺害される。
惜しむらくは頼家が若くして頼朝の跡を継がなくてはならなかったことで、もし頼朝がもう少し長生きをしたら、その後の北条氏による執権政治は実現しなかったのかもしれない。


将軍専制を目指した頼朝・頼家の二代に比べ、三代実朝はその擁立からして専制とは程遠いものだった。以降、鎌倉将軍は実権を北条得宗家に奪われることになる。
実朝は武家の棟梁という鎌倉殿の姿からは離れ、和歌に代表される京の文化に没頭するようになったのだが、それはもしかすると専制を目指して虐殺された兄の姿に鑑みての行動だったのかもしれない。
実朝は子種を得られず、生前から「次は親王将軍を」と待望する動きがあった。実朝を暗殺した公暁は頼家の子ではあったものの僧籍にあったので後継者とはならなかった。しかしたとえその資格を名乗ったところで、源家将軍を断絶させたい北条氏の意向があった以上、擁立は難しかっただろうというのが筆者の意見。
こうした北条氏の目指す源家断絶の意向は、権力を取り戻したいものの親王というお墨付きを与えたくない朝廷=後鳥羽院との意見の落としどころとして、藤原摂関家から将軍が迎えられる慣わしが成立した。
ここに「鎌倉源氏三代」が幕を閉じる。

*1:もっとも、後白河は実はヒステリックで行き当たりばったりな人だったという話もあり、平安から鎌倉までの混乱を生き延びたのも運によるところが大きいという説もあるのだが…それはそれで興味深い。

*2:朝廷の組織の中で政権を作り上げた平家は「武人政権」、朝廷の枠の外に新たな政治権力を作り上げた鎌倉幕府は「武家政権」と呼ばれ、区別される。